こころの壁を超える

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ニリンソウ
オキナグザ

皆さん、お元気でお過ごしでしょうか。私は、先日里山に登って、ニリンソウやカタクリの花を見てきました。中には絶滅危惧種のオキナグザが咲いていて久しぶりの春の山を楽しんできましたよ。

カタクリ

さて、今回の本題は、「こころの癖」、「こころの壁」についてです。

思い込み、中でも確固たる思い込みは「こころの癖」であるといわれています。無くて七癖といいますから、思い込みにも最低は七つくらいはあるのでしょうか。

思い込みといわれても、こころに癖があるのかどうか、よくわかりませんね。でも日常生活の中に現れてくることをみればわかるでしょう。実際にこころに癖があると、どんなことが起こってくるのでしょうか。

それは怒りになったり、相手を批判したり、わかってもらえず悲しい思いをしたりということになります。これはアボジもそうでしたね。晩年は怒るだけではなく、泣き出したことも度々ありました。アボジのこころの癖がそうさせたのでしょう。私たちもアボジの持つ世界観を引き継ぐと、晩年は同じように怒ったり、悲しんだりということになるのかもしれません。

そして、まさに今のお母様や三男さん、七男さん、それらの方々と関係を持たれる人たちの織りなす感情の世界にも、こころの癖がまき起こす現象が見られますよね。

確固たる思い込みは、執着であり、カルマであるといわれます。すると究極的には、こころに存在する神様にも私たちは執着しないほうがよいということになってくるようにも思います。

空っぽのこころになれということでしょうか。神我一如(しんがいちにょ)になると、その部分が神空(しんくう)になるということでしょうか。そうなると思い込みのこころが根っこのところから変わってくるような気がします。

こころの癖を失くしていく。こころの壁を超えていくとでも表現したらいいのでしょうか。

人は誰でもいつかはこの地球を離れ、死んでいくものですね。夫婦仲がとてもよかったとしても、お互いの死を通して別れなくてはなりません。それでも、霊界においてなお永遠に一緒に暮らしたいとお互いに願うものでしょう。

これもこころの壁、執着なのかもしれませんよ。

なぜ夫婦で永遠に愛し合うことがいけないのと思われる方たちもいらっしゃることでしょう。

もうひとつ、別の例をあげてみましょう。

結婚(祝福)は失敗だったなと思われる人についての例です。もちろん、これまでの人生を一生懸命にまじめに生きてきた人たちのことでもあります。そして、最後の最後に奥さん(あるいは旦那さん)に裏切られたとしたら。

これはアボジやオモニ一人だけの話ではありません。

人生に対する一生懸命さが足りなかったから、そうなったのでしょうか。

私はそうは思いません。むしろ、もう少しリラックスしながら、楽しみながら笑えるだけの余裕がほしかったな、と思います。

生前、アボジはジャガイモをオモニと植えて、一緒に収穫したかったとおっしゃっていましたよね。

この例の場合を考えると、永遠に失敗を引きずっていくわけにはいかないでしょうね。

ですから、永遠の中では愛し合うことも、失敗したことも、まずはこだわらないというところから、はじめないといけないように思います。

そして、こだわることそのものがこころの癖であったり、壁であるように思うからです。

「愛は与えて忘れなさい」というアボジの金言があります。でもこれからは、それに加えて、「愛は受けても忘れなさい」ということも、一生懸命、まじめすぎるほど歩んできた人たちには必要なことだと思います。一部の串差し患部(幹部)はもちろん別ですが。(苦笑)

私も高齢者の仲間に入り、お腹のお肉もだいぶゆるくなってきました(笑)。こころの筋肉もゆるめることが残りの人生を生きるうえで、アボジの失敗から学び得たことのように思えます。

私は、人生の半分以上を「真理の道を歩んできた」と自負してきました。しかし、それはアボジから教えられた道でした。教義によって導かれた道でした。もちろん、背後には神様が導いておられたとも感じてはいますが。

しかし、今はアボジやオモニ、ご子女様から評価されなくても、それはそれで良いと思えるようになりました。むしろ、評価されることに、こころを使うことは空しいと思えるようになりました。

なぜなら、こころの癖、こころの壁を超えていくところに天国のゴールがあるように思えるからです。

追伸:山に登るといろんな気づきがあるもんですね。今晩のごはんは、肉ジャガか、カレーにしよう。(笑)

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