内わで分かれ、争う家は?
はじめに、今回は家庭連合の皆さんには、ちょっとおそろしいスローガンを聖書から紹介させていただきます。(苦笑)
マタイによる福音書12:25
「内部で分かれ争う国は自滅し、内わで分かれ争う町や家は立ち行かない。」
これを読むと、家庭連合の中は、すでに洪水で水浸しだと感じてしまいますね。
この事実から、パラダイムシフト(見つめ方の転換)を掲げて、顕進様のもとへ、あるいはサンクチュアリ教会へ馳せ参ずることもできます。
私は、「より心が喜ぶ方向、心が希望に思える選択をする」という明確な判断基準を掲げるほうが良いのではないかと感じています。
パラダイムシフトでは、見方によってはどうにでも取れるご都合主義ともなりかねません。
心の自然な流れに沿う
もうひとつ、有名な聖句をあげてみます。
マタイによる福音書9:17
「新しいぶどう酒は新しい皮袋に入れる・・」
これは決してパラダイムシフトによる考えではなく、摂理的時代の要請ともとれる自然な流れの考えのように思います。
現代の企業の中においてさえも、例えば、グーグルの社是のように「邪悪にはならない」というような、より本心の願いに即したものが出てくる時代です。
ですから内わで争って立ち行かないなら、「新しい町や新しい家を再建する良い機会がおとずれている」と考えるのは極めて自然な導きであり、本心の願いのように思えてきます。
新しい家は、自分の家であり、自分で建てる家のことです。誰かの家に居候で入ることではないように思います。
これまでの神様の願いと残念な人たちや幼い人たち
これまでの神様の願いは、「禁欲的一生懸命さ」で神様のもとに還る一大ロマンを成し遂げることでした。
ピューリタンの禁欲的エートスを髣髴させるような一人ひとりのガンバリで、蕩減生活(修行、修練生活)を卒業することでした。
しかし、残念なことに、お父様は韓国ではピューリタン的キリスト教徒に拒否された結果、精神的には二流、三流とも思える民族的策略主義を信奉する者たち(残念な人たち)と歩まざるをえませんでした。
また、日本においても知的神学的な上層階級ではなく、子供(学生)や青年(純粋だが世間知らずな幼い人たち)と歩まざるをえませんでした。そのため、少なからず社会的には負の結果をもたらすことになりました。
鎮魂の思想と怨念(ウラミ)の思想の出現
ここにきて、「もう十分だ、がんばる必要はない、もういいでしょう。」といった醒めた思想を持つ者も出てきています。
そうした者たちは、日々の平穏無事を願い、ご先祖供養を行い、ときどき教会にも通いながら、時折罰当たりなことをしてしまったという過去に対する後悔の念を持ちつつ、現実の生活路線を歩んでいきます。
私はこうした考えの根底には、祟り(不都合な事実)に対する鎮め(鎮魂)の思想があると捉えています。
世間的には、長い風雪の間に,人間的な角が取れてきたとも考えられます。
純粋に禁欲的一生懸命さで頑張ってきた者であれば、こうした一種の癒しも得られます。
その一方で、民族的策略主義に陥った韓国人の一部の者たちには、角がとれて熟成するのではなく、逆に腐りかけて悪臭を放つ者も現れています。
さらにこうした腐っていく者たちを標的に、怨念(ウラミ)の思想を持つ者たちも一部には現れてきてしまいました。腐った死体をさらに風雨に晒し、鞭打ちながら、鳥獣野犬のえじきにせよと考える者たちです。
神様の希望はどこに
では神様の希望はいったいどこにあるのでしょうか。
「ウエストポイント(米国陸軍士官学校)」以上のガンバリで、牽引されるところでしょうか。
王の権威を強調するところでしょうか。
もちろんこうしたガンバリや権威が必要な場面や時は当然あります。
ピューリタンも北米大陸を開拓していくには勤勉で献身的な姿勢が何より必要でしたし、さらには「選ばれた者」としての気概や使命もありました。
人々を「洪水が来るぞ」と、山の上に煽り追いたてても、その先で選びにもれた人々への憐れみと同時に、選ばれた側に生じる不遜による選択淘汰ははじまらないのでしょうか。
こうした人々の中には、ガンバリによって、権威によって、「真の愛の文化」を築けると信じて疑わない人たちもいます。果たして禁欲的ガンバル主義や王の権威で、新しい文化は築けるのでしょうか。
禁欲的ガンバル主義の限界
ほんとうに「新しいぶどう酒は新しい皮袋に入れる・・」は実現するのでしょうか。
皮袋が裂け、新しいぶどう酒が流れ出してしまうことはないのでしょうか。
私は「真の愛の文化」を形づくること(創造)は、禁欲的ガンバル主義からは生まれてこないように思います。もちろん、上からの権威でも生まれてきません。
さりとて、怨念(ウラミ)の思想は言うに及ばず、鎮魂の思想からでもありません。
禁欲的ガンバル主義は、「一歩でも前に進む」、「世にどう勝つか」という考えです。「一時休む」、あるいは「後退も辞さない」という考えは受け入れられません。
もちろん、適当なところで折り合いをつける、満足するという意味のことを言っているのではありません。
私は、神様(父)の傍にただいるだけということも、時には重大な意味があることを最近悟るようになりました。
すなわち、神様の願う喜びや希望は、多くの戦利品や輝かしい実績、借物の王冠の中にはないように思います。
むしろ、それらは禁欲的ガンバル主義を体現したピューリタンがかつて先住民に対して行った搾取や殺戮の証となってしまうかも知れないのです。
「真の愛の文化」で得られる喜びや希望には、一切の不愉快な副作用がないということが神様の願いです。
成熟した大人と新しい文化
人々から、創造の喜びを奪ってはいけないのではないでしょうか。怨みを買ってはいけないのではないでしょうか。
追従や隷属していく者たちにはこうした喜びは得られませんし、お互いに怨みを残すことになります。
私(たち)が目指す唯一の思想(真の愛)は与える側の思想です。
ともすれば、かつて残念な人たちや幼い人たちがそうであったように、成熟した大人(本然のアダム・エバ)になりきれないまま、今も与えられる側やただ奪う側に安住しているとするなら、ただ住む家を変えただけで同じ過ち、負の結果を残すことになります。
すべての人々が、創造の喜びを得られるように、一人立ちすることが重要です。
夜明け前の時間には心が深まってゆくことを感じています。
今朝も新しい文化は罪からゆるされた者から創造し始めていくものだと感じているところです。
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