Fight the Good Fight(立派に戦う) 前半


軍事力はキリスト教的愛に勝る?

トランプ大統領が訪日されているニュースを見ました。

11月6日付の産経新聞の産経抄のコラムでは、トランプ大統領が日本を武士の国「warrior nation」と呼んでいるとあります。

 

国内の統治には法や正義は必要でしょう。

ですが、国際関係においては国力(軍事力)がそれ以上に必要だということはキリスト教国家アメリカを見ればもはや常識です。

暗に日本にもそのことを自覚してほしいと願うトランプ大統領の発言だったのかも知れません。

 

もちろん、国境を越えて飛んでくるミサイルに、宗教的信仰もキリスト教的愛も無力です。

しかし、聖書的には、テロや独裁国家と「立派に戦う」ということは宗教における聖戦として、矛盾しないことになるのでしょう。

 

この点はもう少し、時間をかけて考察していきたいと思いますが、今回はその前にキリスト教(的愛)が日本に広まらない点を少し考えてみようと思います。

 

そして次回、神様を知る者として、今できることを確認していきたいと思っています。

 

今回と次回の二回に分けて、記事を掲載していきます。

 

日本の教会は楽しくない

私自身半生を振り返り、キリスト教に限らず、宗教には嫌気がさしています。(苦笑)

これは宗教が現実社会の問題、特に国際間の争いに無力な点だけを言っているのではありません。

 

個人の問題としても、一人ひとりの宗教心に対して、組織的圧迫からくる不自由さがあります。ですから自然と教会には足が遠のいてしまいます。

現在の家庭連合だけではなく、日本の一般的なキリスト教会においてもこのことは大いに言えることでしょう。

 

簡単に言えば、今の教会(家庭連合だけではありませんが、一般のキリスト教会も含めて)は老若男女にとっては楽しくないのです。(苦笑)

 

世論調査では、日本の人口の5%ぐらいがキリスト信者となっているようです。これは一応洗礼を受けた人たちとなります。

 

ただ、ここからが問題です。日本では授洗後しばらくすると教会に来なくなります。信仰寿命という言葉があるそうですが、2年~3年というのが日本での平均信仰寿命になり、世界的にみても最低の数字だそうです。

 

このような授洗後教会に来なくなる人たちを「卒業信者」、あるいは「中退信者」と呼ぶのだそうです。日本のキリスト教会独自のワードのようです。

 

教会は大学と同じように、いつまでもいるところではないようです。

 

わが身を振り返ってみても、統一教会で祝福を受けた後は、宗教(統一教会)を卒業したという自覚がありますのでなるほどと思います。(苦笑)

 

家庭連合とキリスト教会の宗教としての受け入れの限界

今の家庭連合は宗教法人のまま名称を変え、統一教会を引き継いだだけです。本来の宗教を超えて立つべき役割が成されていないように思います。

 

神様が願う現代人の心の成長に対して、組織がついていけていないのではないかと思うしだいです。

 

このことが日本においては、家庭連合に限らず、一般のキリスト教会でも「卒業信者」を生み出す現象として起きているのではないでしょうか。

 

そして「卒業信者」、あるいは「中退信者」といわれる数ヶ月あるいは数年でキリスト教会から離れる人たちを、棄教、離教者、さらには背教者と呼んでいるのは、どこの教会でも、組織側に残る者たちの見方と言えるでしょう。

家庭連合ではとくに二世の信者で教会に残る人はわずかですが、同じような目で見られがちです。

 

ここに家庭連合あるいはキリスト教会の宗教としての受け入れの限界があるように思えます。

 

日本人の信仰体質は武士(warrior

先ほど、教会が楽しくないということを理由に教会に来なくなるという話をしました。ではアフリカ系アメリカンのように歌って踊って礼拝し、神を賛美するのが良いのかと言えば、そうでもないように思います。もちろん、ノリノリで賛美したいという人たちがいてもかまわないのですが、日本人には合わないでしょう。

 

これには歴史的な民族の信仰体質というようなものがあるからです。

日本においてもアメリカを模範としてキリスト教国家として歩もうとした時期がありました。

 

明治政府は新しい日本の手本となれる国を求めて、米英、独仏などに使節団を派遣しました。

ところが、そのときのアメリカの風俗(特に男女関係)に岩倉使節団は衝撃を覚えたのです。

 

公衆の面前で男女が固く抱擁し接吻している光景は「醜の極点であり、卑猥の習俗」と思ってしまったようです。私も今ではだいぶ慣れましたが、個人的には卑猥とは思わないまでも、ついていけないという感覚はあるのです。私がまだ若い頃など、洋画でキスシーンを見ると、何か見てはいけないものを見てしまったという思いがしたものです。(笑)

 

明治期、日本でキリスト教を学んだ人たちは、武士階級で幕府側の人たちでした。ピューリタンの精神にも似た日本の近代化のために志を持った人たちです。摂理的には選民意識に目覚めた人たちであったと思います。事実、社会的には特権階級でした。一部には農民階級にもキリスト者はおりましたが、農民階級であっても上層と言われる豪農出身者たちです。

 

特権階級(武士階級)に知識階級が結びついて、日本のキリスト教、日本の初期キリスト教会は出発していきます。

 

残念な点としては知識偏重、神学偏重になっていくところです。ここが今日まで影響して、おもしろみのない教会と言われる所以です。結局大衆化されずに今日にいたっています。

 

イメージとしては、笑い、歌ったりするのではなく、議論をする教会(今のブログ村においても、私自身のブログも含めてその傾向があるのですが、汗)となります。

 

さらに、祈ること(霊的なこと)もなおざりになってきてしまうと、いよいよ人々にとっては、嫌気がさしてくるというわけでしょう。

 

神様の新しい希望は、それでも日本なのか?

私が統一教会に入教したころは、日本に5万人、あるいは50万人の人たちに統一原理を伝え、信者にするという目標があったようです。その摂理(神様の願い)は失敗したと聞かされました。

 

今思えば、はじめから、統一教会の信者に改宗するという意味では無理があったように思います。この点は、お父様(文先生)自身が誤解されていたのか、あるいは弟子たちが間違った解釈をし、間違った伝道方針を取ったのかはわかりません。

しかし、日本にみ言が伝えられ、半世紀を過ぎても家庭連合(統一教会)はマイノリティーであり、むしろ反社会的とまで言われています。

 

本来の神様の願いは、単体のキリスト教団体(家庭連合)に人々を改宗させるのではなく、明治時代に特権階級、知識階級に入ったキリスト教から卒業した人たち、すでに神学的教養を身につけた人たちに、つぎのステップに登ってもらうための橋渡しをすることであったように思います。

すなわち、神様の新しい希望を実現するような飛躍を期待したのではないかと思えてなりません。

 

神様の希望としたものとは、宗教組織を超えて、神様の願う真の愛の人たちを育成することであったのではないでしょうか。

み言に照らして言うならば、神様の母国、聖霊の宿る人たちを見出すということになります。

 

あるサンクチュアリ教会の方は「亨進様は、日本の祝福家庭に聖霊を見出した」と主張されています。

私は日本の妾的存在である一部の女性信者に聖霊の役事がなされ、日本全体が聖霊としての役割を担っているのではないかと思っています。

 

この辺のところは、議論するところでもないので省略しますが、統一教会(家庭連合)としての従来からの主張でもある「日本はエバ国(母の国)として神様の使命を担っている」ということになります。

もちろん、母の国の意味するところは、献金の出どころ、金づるとしての搾取の対象ということではありません。

 

家庭連合、キリスト教会に共通する二つの躓き

今回の記事のまとめとして、家庭連合や一般の日本のキリスト教会が宗教を超えられない、大衆に伝わらない理由として、二つの共通する躓きをあげておきます。

 

1、ひとつは、神様と人間(メシア)を区別できない信者の側の問題です。区別できないため、人物に躓くのです。

 

家庭連合で言えば、お父様(文先生)をメシアであると受け入れたと同時に、神様のごとく人物崇拝してしまうのです。

これは、キリスト教会も同様で、神様のごとき、絶対者的存在の牧師や指導者がどこの教会にもいるのです。組織が腐敗していく原因もここにあります。

 

ですから、イエス様は、「私に躓かないでほしい」と願われたのです。

 

私自身もお父様に妾が六人、いや何十人もいて、血わけ(混淫)をしていた等などと聞けば躓くのです。むしろ躓くなと言うほうが無理ですが。

ましてや、晩年お父様とお母様は仲が悪く、離婚するとかしないとかで、揉め事があったなどと聞けば、さらにガッカリしてしまうのです。

(注:現在、筆者は文氏における妾の存在は事実としても、血わけは真実ではないと考えています。詳しいことはここでは省略します)

自分の心の中に神様を見出せないままに、お父様(文氏という人物)を見てしまうと、この躓きから立ち上がることはまず不可能です。

 

2、もうひとつの躓きは、先生(メシア、教会の長、牧師)主義による弊害です。

 

これは家庭連合では、アベル(指導者)に従順屈服せよというみ言のもとに、指導者(個人)の傲慢さを助長させてしまい、教会組織全体に躓くというものです。

指導者の言動があたかも神様の言動であるかのように指導し、誤まった方向に全体を導いてしまった結果です。

 

日本のキリスト教会でも植村正久氏、内村鑑三氏、徳富蘇峰氏など、皆一面、傲慢でしかも自信があって謙虚さに欠けていました。そして現在の日本のキリスト教会も分裂しています。

ですから、パウロも「人を惑わす原因にならないように」と、言動に注意したのです。

 

ただ日本のキリスト教会のこうした個性的とも思える人物が、次の摂理時代圏に飛躍していく土台を築いたのだとも思います。

彼らの日本人としての荒々しい誇りは、ある意味、誤解を恐れずに言えば、摂理的な父親としての神様の一面でもあったからです。

摂理を急速に進めるためには、時にはモーセのような血気盛んな強力なリーダーが必要であったのです。

 

日本の歴史においては、日本のキリスト教会には武士(warrior)によるリーダーシップが必要であったということです。

 

家庭連合においても、二人のリーダー(顕進様、亨進様)が今日現れたことは、現代のwarriorとして、摂理的に登場せざるを得なかったと言えるのではないでしょうか。

 

〈後半へと続く〉

 

 

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