ここ最近はとても冷え込みますね。
先日は車の中においてあったペットボトルの水が凍っていてびっくりしました。
水道管が破裂したというニュースも聞きます。
そんな毎日ですが、気持ちは温かでありたいですね。
今日は愛のお話です。(笑)
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とにかく愛する行動を起こす
言葉とは言霊(ことだま)であり、発した人の心や魂が自ずと表れます。
最近、新聞記事の中の言葉に励まされたことがありました。
曽野綾子さんが1月28日付の産経新聞で”「隣人を愛する」難しさ”というコラムを書かれています。
その中で、「愛は好きだという自然な感情が沸き起こることではなく、人として、私たちが相手に対して持たなければならない感情を、義務として持つことなのである。」とおっしゃっていました。
さらに
「感情としての愛がなくてもいい。」
「義務として、愛しているのと同じ行為が取れればいいのだ。」ともおっしゃっています。
私の中にはひとつの悩みがありました。
どんな相手も愛したい。
でもそんなことはできない。
すべての人を愛せないのです。
こうした悩みは少なからず、誰にでもあるのかもしれません。
時には罪悪感を持ってしまうことさえあります。
怨讐を愛さなければ天国に入れない。
これはとても重みのあるみ言です。
しかし、曽野さんは義務でも使命感でも、とにかく愛する行動を起こせばよいとおっしゃっているのです。
永続的な励ましも愛となる
私自身、愛する行動とはどのようなものか、思いをめぐらせてみました。
愛は思っているだけでは成立しない。
愛は実行しないではいられない。
感情として「心に抱いている」だけでは成立しない。
愛は実際の行動にまで感情が高められたもの。
さらに愛の行動には、一定の意志が必要。
たとえ、温かく見守ろうという一見何もしていないかのような態度であっても、そこにはしっかり見守るという責任と忍耐をともなう意志があります。
人生の中で、愛しているからこそ忍耐するという状況に直面することは決して少なくありません。そのような場合でも忍耐しようとする意志が必要です。
この意志を愛する意志、愛の意志と呼びましょう。
愛の意志とは、相手の成長を支援するための激励のエネルギーです。
愛のエールを送り続けることは、秩序なく与えることや条件もなくゆるすこととは違います。
愛の意志によって、時には愛を伝えないこともあるでしょう。
そうした決断や忍耐が必要な場合もあるのです。
今私たちの置かれている状況から、出来る範囲内での愛の行動を考えてみます。
家庭連合にかかわるすべての人たち(分派を問わず)の成長を願い、たとえ見守るだけでも、永続的な意志による励ましとなれば、それは確かに「愛」と呼ぶに値するものではないでしょうか。
愛のエールは自分に戻ってくる
もう一度、真の家庭や分派、周りの人たちを見直してみてはいかがでしょうか。
知らないところで、皆さんそれぞれ、神様に何らかの喜びを与える存在として生きている人たちかもしれません。
そのことに気がついたら、あなたから、すべての人たちに激励のエネルギーを送っていただきたいと思います。
今はそっと見守るだけでも、十分な愛の行為なのです。
義務や使命感で、祈るだけでもよいのです。
やがてその行為は、自分にもどってきます。
自分の存在価値を認め、自己を肯定し、自分の中の神様を愛するようになっていきます。
そして、ここから、自分の心の中から、何もしていない、何もできない、すべての人を愛せないという罪悪感を捨て去っていくことになります。
人生の半ばを過ぎ、まだ天国への頂上が見えないと嘆くよりも、着実に愛の頂を目指し、成長しつづける努力と勇気も持つことは、むしろ私たちだけが持つ喜びではないでしょうか。
さらなる心の成長を目指して進みましょう。
まだまだ、寒い日が続きます。大雪の地方に住む方たちもおられます。
どうぞお体ご自愛ください。
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*いつも応援ありがとうございます。
*訪れてくださる皆様には心から感謝いたします。