原理という価値観のため、心から笑えない私がいる(1)


平昌オリンピックを楽しめましたでしょうか

オリンピックが明るい話題になっている方たちも多いでしょう。

ただ、そうした中でも背後には政治的なものを感じてしまうのは私だけでしょうか。(苦笑)

 

閉会式も華やかで、平和ムードを醸し出していたようでしたね。

ただ、閉会式の平昌五輪組織委員会のイ会長の話を希望的に聞いた人はいたのでしょうか。

「南北の選手全員がひとつの民族を確認」

「世界は南北の選手たちがともに競技する姿に賛辞をおくり」

「朝鮮半島の平和に歴史的な礎を築いた」とのことです。

 

子供だましの発言内容ですね。堂々と言ってのけるところがまた悲しい。(苦笑)

 

抜け目なさを持ちながら、相手によっては頭を下げて機嫌をとり、貢物を送る。そしていざとなれば我先に逃げ出して生き延びてこざるをえなかった宿命を背負った民族だからかもしれません。

長きにわたり異民族の侵入と、中国への服従によって築かれた屈折した恨の精神の一端を見たように思います。

 

さて今回から3回に分けて、家族愛や民族愛(祖国愛)について、私が原理という価値観のために、葛藤している内容や感じている事を率直にお伝えしていきたいと思います。

 

少しばかり堅苦しく、耳障りな点もありますができれば最後までお付き合いください。

 

 

家庭連合の「家庭」とは何ですか?

私の友人に家庭とは、「ちゃんとした庭に木がある家だろ?!」

という人がいます。

もちろん、彼の仕事はガーデンプランナーなんですが。(笑)

 

冗談はさておき、私は「黙って自分を愛してくれる場所、空間」が家庭だと定義してみました。

もちろん、これは「黙って自分を愛してくれる存在」があればこそです。

この存在を私は心の神様と呼んでいます。

 

そう考えてみると、あらためて家庭とは、「黙って自分を愛してくれる存在がいる場所・空間」ではないかと思えてきます。

 

心の神様は、家庭という空間の中でずっと私たちを見守っていてくれています。

もちろん、その空間とは家族というお互いの心の中に創られる関係性です。

物理的居住スペースではありません。建物自体は二次的なものです。

 

大方の人たちには神様の存在がわからないかもしれません。しかし、家族としての愛情は感じることができます。この愛情には源流があるはずです。

 

 

家族は触れ合うことができる神様の代理人

愛情に源流があればこそ、下流には家族間における家族愛があるのではないでしょうか。

ですから家族は「黙って自分を愛してくれる神様の代理人」だと思います。

 

また、私という側からみれば両親や兄弟姉妹、夫や妻、子供たちは愛すべき対象ともなります。

 

さらにそこから広がって、親戚、親族の人たち、あるいは血のつながりはなくても家族同様のお付き合いをしている人たちやパートナーの存在がいることでしょう。

 

こうした家族、親族あるいは家族同様の人たちは、実際に会うことができますし、触れ合うこともできます。

傍にいるだけで力になったり、励ましたり、励まされたりします。

 

中にはペットに家族同様の癒しを感ずる人たちもおられます。

ただ、ペットは友人にはなれても、親子や兄弟姉妹にはなれませんね。(笑)

 

家族間における葛藤や家族をもつことへの葛藤

神様の大切な代理人どうしでも、家庭内における夫婦、兄弟姉妹、親子間で葛藤している場合があります。

中には、凄まじい関係になってしまう場合もあります。

家庭連合のメンバーであれば、真の家庭を見てきて、すでにそうした事実は見聞きし感じていることと思います。

 

個々人の家庭にあっても、家族間に何も問題がなく、すべてにハッピーという家庭は少ないのではないかと思います。

 

葛藤やわずらわしさのリスクを避けるためか、家庭・家族を持つことをためらう少子化現象(とくに結婚しない若者たち)も近年目に見えて顕著になってきています。

 

日本では「おひとりさま」で自由に生きることを是とするフェミニズムが持てはやされたりもします。

 

我が家においても、私と家族の間には葛藤があります。

長女と次男は二十歳を過ぎましたが、祝福はもちろん、一般の結婚にも縁遠いようです。

 

私は娘にも息子にも、祝福もしくは一般の結婚でもどちらでもよいので家族もつことを望んでいます。

 

長女は祝福を望んでいても相手に対する要求が多すぎてか導かれません。次男はそもそも結婚や家庭を持つこと自体を望んでいないようでもあります。(苦笑)

 

祝福や結婚の選択は、もちろん個人の自由で強制できるものではありませんので今は見守っています。

 

むしろ、長男が祝福を受けて、家庭を持っていることが私には奇跡に思えてしまうことがあります。(苦笑)

 

ひと昔前までは、家庭を持つことや子供を産み育てることに関してだけ言えば、当たり前のことでした。今も普通に当たり前のようにすんなりいく人たちもいます。

 

ところが、家族をもつことや、子育てをすることを当たり前でないと思うようになったり、独身で生涯を終えることを良しとする傾向は明らかに進んできているように感じています。

 

望むと望まないとにかかわらず、晩婚、未婚、非婚による人生も選択肢のひとつになってきているからです。こうした現象はいつの頃からでしょうか。

 

 

 

私が家族について考えるようになり、この問題に気づかせてくれた映画ついて次回でお話しようと思います。

 

 

 

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