今朝は雪であたり一面が真っ白になりました。別世界に迷い込んだようでしたね。すがすがしい気持ちで私はさっそく犬の散歩に出かけました。
少し離れた場所にある大学の構内横を歩いていると、学生用の駐車スペースをメルセデス・ベンツ製の万能作業車「ウニモグ」が除雪をしていました。
実物を見るのは初めてでした。散歩の途中でしたが犬を待たせて、しばらく見いってしまいました。とにかくかっこいいんです!(笑)
帰宅してからは私も除雪車のごとく、家の前の道を雪かきしました。雪かきスコップでの人力でしたので、湿った雪はとても重くて、腱鞘炎になりそうでしたよ。(笑)
さて本日の投稿テーマは雪の重みよりずっと重い、祈りの思いについてです。それでは始めましょう。(笑)
コロナの災いが世界に拡散されていても、祈りにつつまれて守られていることにありがたいという思いがずっとしています。
日本は皇室(天皇・皇后)の祈りに守られていると感じます。特に皇后(国母)さまの祈りの意味はとても大きいように思います。
確かにお母様(平和の母)のおっしゃる「孝の情」はもっともなことです。しかし、その情は必ずしも国家には繋がらないように思います。孝の情が国を超えられずにいるのです。
国(国民生活)の基本は、個人(アダム)でもなければ、夫婦(アダム・エバ)でもない。家族という共同体があっての国の基本と言えるでしょう。
私は親子の関係(情愛)が、命の連続性の中で自然に発生するものと思っていました。ところが、文氏、韓氏の夫婦間では、妾や庶子が現れ(摂理とは言え)、孝の情が崩れてしまったように思います。
百歩譲って、そこに家族愛があったとしても、そこから先の祖国(天一国)に通ずる忠の情には嫉みの思いが壁となって、簡単には結びつかないように感じます。
お母様は宗教の主宰者には立つことができても、国としての祈りの主体に立つことができないまま、民族の壁(妾と庶子の壁)を超えられないでおられます。それが韓国の現政権の混迷さにつながる遠因(霊的原因)となっています。
今日の日韓関係の悪化という現象は、韓国の日本に対する恨みではありますが、韓国人の心の深い部分には、王室を持てない民族としての嫉みがあります。そして天の父母様聖会においても、王室としての祈りがすでに形骸化してしまって、神様の恨となっているのです。
「皇」は大陸の覇者、中国王朝に限って許された文字で、韓国から見ると自分より「上の存在」というイメージを持ちます。ですから日本(の天皇)に対してはコンプレックスがあるのです。コンプレックスを克服するにはそれ以上の愛を示すことが必要であったのです。
ご存知のように世界の中で、国民の安寧を祈る、「国母」(皇后)の存在は、世界の中で日本だけに存在すると言わざるをえません。日本には神話の時代に遡って今日まで絶えることなく皇室(皇統)が存在するのです。しかも、皇室自らの役割を祈りと自覚している点で極めて特別な存在です。
日本(皇室)を愛する以外に世界を愛する道は開かれないのではないでしょうか。そのことを神様は願っているのだと思います。
追記;
本日ネットで、「チャレンジ10000人、岩手県復興への祈り、希望前進大会」に参加させていただきました。メインスピーチで田中富弘会長は、東北の復興と祈りについて話され、「静かな変革者」と称して家族文化、家族の大切さ・絆をうったえられました。
平和の礎は家庭であり、そこは人づくり、国づくりのはじまりとも言われました。
世界を驚かせた、津波で流された金庫が震災後であっても警察に届けられたというエピソードも話されました。日本人の民族性、和の文化、家族意識による精神文化的背景のすばらしさを称えられました。
しかし、そこには、和が示す寛容と多元性に基づく古来からの皇室の祈りについては一言も触れられていません。
日本人として、この大会(チャレンジ10000人、岩手県復興への祈り、希望前進大会)における一万人の復興への祈りとともに、その背後にはこの国と世界の平和を願う天皇・皇后両陛下の祈りがあることを忘れてならないでしょう。