愛国心とは何か?

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同じ出来事でも、それを見る者(観察者)の立場によって意味は違ってきます。ですから「事実」は見る者の数だけ存在すると言えます。

これがよくわかる例として、黒澤明監督の「羅生門」という映画があります。

女が暴行されるのですが、その女を始め、現場を目撃した者たちの語る内容が皆くいちがっているのです。結局、真相はわからずじまいというお話です。

歴史もしかりです。また教会の歴史においても何が真実かになると何もわからないというのが妥当なように思えます。

「アブラハムの典型路程の摂理」や「妾の摂理」があったことが事実としても、その摂理を解釈するには解釈する人の数だけあるということになるわけです。

神山先生、小山田先生、周藤先生、その他の先輩方たちもそれぞれの色めがねでこれらの摂理をご覧になっていて当然でしょう。ただ共通して言えることは、沈黙を良しとしておられ、無難な選択をされている点ではないでしょうか。

もちろん私自身も独自の色めがね(個人的視点)で見ていることに違いはないのですが。汗

問題は、こうした様々に解釈できる教会の歴史内容が私たちシックの誇りになるのかという点です。むしろ恥や怒りの感情を持つ方向へいくことも覚悟しなくてはならないかもしれません。

教会の歴史の美点ばかりを見て、その裏側を見ないのは単純に忘却とごまかしによるナショナリズム的愛国者のような気がします。

失敗や過ちに誇りが傷つけられながらも、理想的見地を忘れないという歩みは苦しいものです。しかしこの苦しみを通過しなくては神様のもとへと近づくことは難しいようにも思えます。

私は「神のもとに帰るための愛の包み込み」と呼んでこの過程を歩んでいこうと思っています。愛の包み込みを通して批判や反感といった感情、恥や怒りという感情、諸々の思いを苦しみながらも切り離していきたいのです。

そこには、自身も恥や怒りの対象となってもかまわないという覚悟も必要かもしれません。

愛国心には両面があります。ひとつには故郷の人々や自然、国土としての祖国を愛するものです。もうひとつは共同体としての祖国です。原理用語で言えば、ホームチャーチとか家庭教会という人間関係の中に作られる理想とする心情的繫がりです。

私は日本人ですから、祖国は日本です。数多くの島々から成り立つ自然環境とその島々に暮らす人々、その中で育まれた文化を愛します。しかし、これはあくまでも側面であって、言わば美点だけを見ているようなナショナリズム的愛国心です。

愛国心にはもうひとつの側面もあるのです。今日の自由と平和な民主主義の精神を愛するものです。そのために犠牲と失敗、過ちと恥を経験してきたことに謙虚な反省もします。また犠牲となった人たちが抱いた祖国への思いや誠意を否定しません。そして感謝も忘れません。それらをすべて包みこんで乗り越えていく前向きな気持ちです。その先には世界の平和に繋がるという気持ちです。

アウグスティヌスは天上の神の国こそ祖国だと主張しました。他方特定の実在する国家を崇拝してしまうと、どんな国であっても(たとえ韓半島がひとつの国家になっても)危険性の極めて高いナショナリズムを含んだものになるでしょう。

ポスト家庭連合の時代は、国家を超える実子圏が目の前に来ています。それは愛の包み込みの愛国心の芽生えとともに超えていく時代ではないかと思われます。

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