華夷思想の朝鮮にみる限界

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韓国はキリストの思想を根底とする国家であるというよりも、今もって儒教による華夷(かい)思想のままの世界観を持つ国家と考えたほうが現実的には合っているように思います。

今回はこの華夷思想についてお話していきます。

華夷思想とはあまり聞かない思想かもしれませんが、中華思想ならご存知の方も多いでしょう。

中華(中国)思想では、天下(世界)を支配する王者としての天子(天の子)と言われる存在が不可欠です。その天子が王朝(朝廷)を開くときに、王朝の支配が及ぶ範囲を国と呼んでいました。

そして国の周囲は四夷(しい)と総称されていて、国の中心より方角によってそれぞれの地域を、東夷(とうい)、西戎(せいじゅう)、南蛮(なんばん)、北狄(ほくてき)と呼んでいました。これら周辺の四夷の地域は中心に立つ天子の徳をしたって朝貢します。世界(天下)とは天の代理者である天子の徳治する世界のこととなります。

この世界を広めるというのが天子の使命になっているのです。当然四夷は野蛮な異民族であって、中華の教えで教化させなくてはならないと考えられていました。

このような中国の中華思想的世界認識(天下的世界認識)は裏を返せば、周辺地域(四夷の地域)においては華夷思想となって影響を及ぼしてしていきます。

日本にもその影響がありました。「天下」と言う語は織田信長が「天下布武」の印を用いたことでも知られています。また世界認識としての「天下」は豊臣秀吉の「天下統一」の考えにも影響を与えていました。本家本元の中国は未だこの考えを捨ててはいません。それが「一帯一路」と表現が変わっただけなのです。

この天下的世界認識の影響を最も受けたのが朝鮮半島でした。中国の政治的軍事的脅威が常に存在していたからでしょう。朝鮮の各王朝は、中国王朝と君臣関係を結んで朝貢を続けながら、いずれは中華の文明を受け継いで、正当な後継者をめざしたいと考えるようになります。

中国王朝の明が四夷の地域から来た清に滅ぼされると、正統な中華文明の継承者は朝鮮王朝であると考えるようになりました。これは小中華思想と言います。小の字をつけたのは謙遜というよりは、清には国家として服属していた手前、遠慮があったからでしょう。

朝鮮の両班知識人は、この考えをもって中国を中心とした天下認識から、自国(朝鮮)を中心とした天下認識へと転換していくことに誇りを覚えていきます。朝鮮は中国を中心とする天下のなかで東夷としての時期が長かったため、朝鮮半島の諸王朝は中国化(中華化)を切に願い、知識人(両班)もそう願いつづけてきたからです。

朝鮮では明(中華)と同じ文明に浴しているという意識が強かったのです。例えば、世宗(セジョン)の制定したハングル(偉大な文字の意)でさえも、今でこそ高く評価されますが、当時は漢字が正統であり、漢字以外の文字は夷狄(いてき)の民が使用する卑しいものとされていたのです。

小中華思想のもと、小国の朝鮮が大国の明(中華)に仕えることは礼であり誠意ある務めとされる一方、政治的には中国(中華)に対して言いなりになるという事大主義に陥っていくことになります。

華夷思想はもともと地域や種族の区別によって、華(中国の文化)と夷(野蛮な周辺国)とを区別するものではなく、中華の文明に従い、浴しているかどうかが重要な基準でした。

したがって、朝鮮の両班の中には、地理的には夷であっても、中国に従い中華の文明を持てば華へと変化できると考えたのでした。朝鮮に中華文明が存在するという誇り(小中華思想)が定着すると、従来の文明によって決められるべきはずの華と夷の区別・基準が朝鮮という地域、種族に限定されたものへと変化していきます。

今日の家庭連合(天の父母様聖会)の有様はこの朝鮮の華夷思想の変化と似ています。創造理想を求め、自らがその後継者という誇りを持って突き進む姿は、さながら朝鮮王朝や両班知識人の涙ぐましいほどの開拓者としての姿と重なります。

しかし、ひとたび我が身を中華(天宙)の中心と自覚したときから、周辺国(他宗教、他民族)の中にも発見できる中華文明(天が祝福すべき文化)を認めない華夷思想の負の面に陥っていきます。

それは「我こそは天の選民で、世界の中心であって、周辺の国々は堕落した野蛮な者たちである」という考えとなっていきます。その結果、自らの国にあるはずだった中華文明(天の祝福文明)も手放し、国の土台さえも崩れ去っていくことになります。

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