御霊はいずこへ


日光菩薩。こう見えても、一応おれ、男っす。

日々、オリンピック競技での各国選手の活躍に大いに勇気づけられる毎日です。皆様はいかがお過ごしでしょうか。

日本選手ついては、個人戦より団体戦やペアで臨む試合に、よりいっそう実力以上の力を発揮しているように思います。選手を応援する側にも、「鬼やば!」とか、「カミってる!」といった若者言葉に、鬼やカミが飛び出してくるのも、何か古来から脈々と伝えられている神道的な共同体意識、カタカナ風に言えば「オールジャパン」の意識があるように思えてなりません。

もちろん、日本以外の海外の人たちに仲間意識や共に喜ぶといった思いがないわけではありません。しかし、特に西欧のキリスト教では「最後の審判」では、昨日までの友と言えども、ひょっとすると天国と地獄に分かれるというようなとても厳しい世界が待っているようです。日本人は、皆が風の神や水の神になって、空を駆け巡り、やがては大地にかえっていくのです。そして、日本の風土そのものとなって、神様となり、あちらこちらに宿っているのです。

先日、トレッキングで峠を越えて来ました。江戸時代の街道沿いの宿場町から、次の宿場へと繋がる峠道を歩いたのです。近年は外国籍の観光客も増え、当日も何組かの外国人と思われる方達に出会いました。

トレッキングコースは山歩きほどはきつくなく、峠の休憩所での湧き水はとても冷たく気持ち良かったです。また途中の景観も良く、遠くの山並みも見え、快適な時を過ごしてきました。ふと見ると街道筋の脇には、神社やお寺もいくつかあり、また小さな祠もありました。寺の境内の一角には、マリヤ観音なるものもあって、隠れキリシタンがいたことがうかがえます。

当時の隠れキリシタンが死後、仏教の教えのように仏になることを意識していたのかどうかはわかりません。死ぬことは「御陀仏(おだぶつ)」になると言いますが、観音様に込めたマリヤ様を拝むという発想はいかにも神道的なように思います。もともとの仏教には原初は仏になるという思想はありませんでした。日本において神道化したことによって日本人の心に受け入れられていったのです。残念ながらこのマリヤ観音像には首から上の顔を失ってしまっています。仏像同様に非常に品のよい顔立ちだったことでしょう。

仏像には、日本人の感性が宿っています。魂をこめると表現しますが、男女の性を超えて、菩薩の表情を創り出しているのです。インド、中国、朝鮮にみられるようなエロティシズムをもっていません。一貫して、日本の菩薩像、観音像には高貴さが漂います。現代風に言えば草食系なんでしょうね。菩薩像は一般的に女性を思わせますが、日本の菩薩像の多くは男性です。(笑)

トレッキングで豊かな自然環境の中を歩くと、生かされているという思いが込み上げてきます。同時に霊的存在である神々が身近に感じられます。この世を肯定する基本姿勢は、人間も神的存在と感じる感性となります。統一シックにとって、一神教の教えにおいて堕落性を脱ぎますと、まさに「仏」になったり、「神様」になったりという感覚がよりいっそう身近に感じられると思います。私は、時々、千の風になって、大きな空を吹きわたっている自分の姿をイメージします。オリンピック日本男子鉄棒の決めセリフ風に言えば、「心身の新解脱へと描く放物線は、栄光への架け橋だ」となるでしょうか。(笑)

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