峠から見る風景

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普段はあまり、芸能ニュースには興味がないのですが、最近、女優の深田恭子さんが適応障害で活動休止という話題を知りました。

適応障害は、うつ病の一歩手前の段階のようです。ストレスが原因で引き起こされる抑うつ気分、不安、怒り、焦りや緊張などの症状があるそうです。

仕事はもちろん、社会生活や日常生活も著しく制限される状態だと言えるようです。ストレスの原因は、人によって様々なようですが、直接の原因を知って、その原因から遠ざかることが一番の回復への近道となるようです。早く彼女がお元気になられることをお祈りいたします。

今日の本題ですが、こうしたストレスによる心の病について、私が何故興味を持ったのかと言うと、似たようなケースを身近に見聞きしてきているからです。そして、私もたくさん心情の血を流してきたからです。

今年の四月に私の所属する地域コミュニティの自治会長さんがそうでした。心労から倒れられてしまいました。心労の原因は、様々な地域の課題が重なったのですが、特に支えとなり相談できる副会長さんが急遽いなくなり、その他の役員さんも当てにならず、新年度の4月からは、誰にも頼れず、すべての問題を一人で背負う形となって、ついに倒れられたのです。コロナ禍の事態とも重なり、自治会長、副会長ともいない状態では、地域の行政機能は止まり、自治会長が心の病になったことで、地域住民も重い気分となってしまいました。

人の心の中で起こっていることは、他の人が知ることはできないことです。そもそも、当の本人も、自分の身に起こる状況、たとえば職場や学校へ行こうと思っても、気持ちはあっても身体が家から一歩も出ることができない状況になって、追い込まれてみて、はじめて本人も周りの人たちも自覚するからです。

私も自分の心の内側をのぞき込むことによって心的状態を常にチェックできるわけではありません。むしろ、身体の不調と同時に、違和感とか、不安感、焦り、怒りを感じて、何か変だと気が付くわけです。

心的状態は、身体の変化や現実と違って、フィクションのように見えるかもしれません。しかし、人間の行為は心に起因すると考えるなら、私たちの生活は、生きていくうえで、この心が重要な位置を占めています。「考える」「思う」「愛する」「悲しむ」など、心は常に膨大な情報量で溢れ、無防備でストレスにさらされているからです。

頭の中に心があると考えると、行為は合理的に行えるようにも見えますが、説明できないこともあります。「そんなつもりではなかった。意図したこととは違う。」ということもあるからです。常に相手との関係性の中で、心が反応するからです。ですから、ある行為が自分だけの一方的な自由意思に基づくものであったとしても、その行為の起因するところは、誰かを対象として意図しているのです。そして、時には心は相手にではなく、自分に向かって刃をつきつけてくるのです。

何らかの関係性の中で、心の快、不快、調子の良し悪しは起因していると言えます。

心に沸き起こり、実践したことが、単に個人だけで完結しているわけではないと言うことです。誰か他者との関係性の中で起こっていることに注目しなくてはいけません。たとえ、独り言をつぶやいたとしても、それは過去に誰かと関係性を築いていることに起因しているのです。

例えば、「おはようございます。」と、Aさんにあいさつをしたところ、Aさんは聞こえなかったのか、何の返事も返すことなく、通り過ぎ去った場合を考えてみましょう。あなたは独り言として「せっかく、あいさつをしたのに」と思うかもしれません。しかし、この場合、過去にあなたに誰かが挨拶を返してくれた事実が前提としてあるので、この独り言は成り立っているはずです。

もし、そうでないとしたら。

例えば、「おはようございます」、Aさん「・・・・」、あなた「Aさんに限らず、今まで誰からも返事を返してもらったことがない。」

この状況は、かなり深刻と言えるでしょう。Aさんという存在はもともといないのか、あなたの妄想の中の人物なのかもしれません。それとも、あなたの周りはゾンビと化したイジメの集団なのかもしれません。

コミュニティの構築にもっとも重要な一つとして、宗教があります。reilgionという用語は、ラテン語のつなぐ(religare)にルーツがあり、再び結びつけることを意味するからです。

しかし、この宗教による結びつきが失われつつあります。人々は結びつきを宗教以外に求めています。

直接に神様とコミュニケーションをとるというものです。私と神様の間に宗教を介在させないのです。こうすることによって、先の例で、挨拶をしても誰も挨拶の返事を返してくれない場合を想定しても、深刻な状況には違いありませんが、その状況を冷静に受け止め、その環境を打破していくことができます。すなわち、適応障害やその先のもっと深刻なうつ病にならなくて済みます。

人生を長く生きていると、修羅場をいくつも通過します。その度に、心は傷つき、心情の血をたくさん流します。

おかげで、今では自分だけでなく、他人の不安感や追い込まれた心的状態も敏感に感じられるようになりました。私は先の自治会長さんの異変にも、事前に感じ取れたので、しかるべき方(元自治会長さん達)に、支援を家まで行ってお願いしたのです。しかし、相手にされず、結局は手遅れになってしまいました。

心の病だけではなく、身体の病や怪我についても、それがもとで、心が塞ぐこともあります。過去に私にはとても残念な思い出があります。

教会生活の中で、ある姉妹が交通事故に遭って身体が不自由になりました。すると、厄介者のようになってしまい、最後は教会を去って行かざるをえなくなったのです。これを私は、教会版「ああ、野麦峠」だと心に刻んでいます。

「ああ、野麦峠」は、山本茂実氏によるノンフィクションです。ざっと、解説すると、明治から大正にかけて、岐阜県飛騨地方の農家から長野県の諏訪、岡谷の製糸工場へ十代の娘さんたちが働きに出ていきます。吹雪の中を危険な峠(野麦峠)の雪道を越えて、出稼ぎに行くのです。しかし、懸命に仕事に励んでも病(結核)に倒れれば、病気の者は使いものにならないと、物置小屋に放りこまれて衰弱し、死を待つばかりとなります。そんな彼女を家族である兄が引き取りに来るのです。兄に背負われて、故郷の飛騨に帰る途中の野麦峠は燃えるような美しい紅葉でおおわれています。娘は兄の背から故郷の山々を眺めるのですが涙でかすんでしまいます。「兄さ、飛騨が見える」それが娘の最後の言葉となります。娘は故郷が見える野麦峠で永遠の眠りについたのです。

富国強兵の国策で、有力な輸出品であった生糸(きいと)の生産を支えた彼女たち(女工)と、摂理の中で姿を消していった姉妹シックたちの姿は、私の心には重なってしまうのです。

今、教会のコミュニティの活力が失われています。民主的なプロセスが失われています。自由で開かれた審議の機会もありません。個々の重要な問題について、賛否比較検討することもできません。教会コミュニティが失われると、最終的には神様との共同的行為の流れもさえぎられてしまいます。

私の地域コミュニティも、教会コミュニティも、ともに変革しなければならない時期だということを痛感する次第です。

深田恭子さん
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