誰かがやるからいい、そして誰もやらなくなった

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何事も、誰かがやるからいいと考えると、無意識のうちに手を抜くようになりますね。

お父様がやるからいいとか、先輩家庭がやるだろう、そして今は、お母様がやるだろう、ご子女様の誰かがやるだろう、そのように私たちも考えてしまいますね。

その結果、誰もやらないのでは?

ということになります。(笑)

また、山歩きを例えにしてお話させていただきます。私が山に行くときはだいたいは単独行です。山道のすれ違いでは、軽く会話をすることはありますが、あとは静かに一人歩きが基本です。

誰にも邪魔されずに、土や岩、花や木と対峙できて、ひとりで黙々と歩く一日は何にも代え難いのが魅力です。もちろん、神様とは会話をしますから、正確には一人とはなりませんが。(笑)

ただ単独行は危険も一人で背負いこむことにはなります。神様も助けてはくれません。道迷い、滑落、転倒などの遭難原因に加えて、65歳以上の高齢というリスクも重なってきます。一旦遭難すると、低山や夏場という条件ではあっても、低体温症などによる命とりになりかねません。

実は正直に申せば、最初の登山で、私は道に迷ってしまいました。もちろん、山自体は低山の里山でしたが、その時は登山道の別れ道にあるはずの標識が見当たらず、しかたなく道らしきものと磁石の方向を頼りに進んで行きましたら、途中から険しい斜面を下ることになってしまいました。そのまま、転げ落ちるようにして、なんとか下山はできたのですが日没がもう少し早まっていたらと思うとぞっとしました。このときはヘッドランプを持参していませんでした。

「おかしい」と感じた時点で、引き返す勇気を学びました。違和感は靴底の感触で感じることをあとから知りました。遭難しかかったときは、確かに靴底の感触はふわっと柔らかく、人が歩いていない証拠でした。登山道は固くなっているものです。

み旨の道に関しては、誰かがすでに踏み固めているわけではありません。道はふわっと柔らかく、落ち葉に覆われているのです。ましてや、引き返す道理もありません。ですから、基台を組んで、グループで行くのがベストなのです。その時は最後まで一緒に行ってくれるメンバーがいることが心強いです。私は韓国人、中国人スタッフとは行きたくありません。彼らは日本人メンバーをほっぽり出して行くからです。

み旨の道において、道迷いのシグナルはとっくに出ています。木が密生して切れ目がない眺め(異様な組織内の独裁的眺め)、多くの人が歩けるように整備するはずの岩場やガレ場が荒れたままでいる(シックの心情がささくれている)、長い距離にわたって行く手が雑草や苔で覆われている(多くの先輩家庭が既に脱落して引き返している、もしくは遭難している)などです。

引き返して下山するのもひとつの賢い選択肢です。またはビバーク(野営)して、体力、気力の回復を待つこともありえます。しかし、ビバークはあくまでも緊急避難のためです。落石のおそれのある崖や増水したら逃げ場のない沢筋、吹きさらしの尾根などはかえって危険な場所でもあるからです。

今はみ旨においては、日没一時間前の状況でしょう。ビバークするか、近くに山小屋があればそこまではなんとか、たどり着くかの決断をしなくてはいけません。たとえ、その山小屋には菊の紋章がついていてもです。

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