実りの秋になりました。皆様お元気でしょうか。
今回も日本人、そして日本のすばらしいところをお話していきます。
「日本の社会と文化には次元の違う気高さと敬意がある。他国は日本から学ばなくちゃダメ」
ゴルフのマスターズで松山英樹選手が優勝した時のことです。
試合後、彼のキャディは芝生にお辞儀をしました。
これが「トーナメントに敬意を表した」と話題になりました。その感動のコメントが上記のコメントです。これはほんの一例です。
「長年スポーツで見てきた中で最高のものだ」というコメントとともに、この動画は8時間で250万回再生されたようです。
「試合を行ったコースと、応援してくれた観客に対する素晴らしい敬意だね」
「日本人のような敬意の示し方は、今の世界に欠けている。だから映像を観た時、感動の涙がこぼれてしまったよ」
「日本人は気高く、礼儀を備えた国民だからね。年上や家族、伝統や習慣、対戦相手を重んじるんだよ」等々。
お辞儀をしたぐらいで感動の涙を流す人がいることに、日本人は少々戸惑う事でしょう。
高校野球のファンなら、すがすがしい球児の姿、必ず帽子を取って礼をします。あの姿を思い浮かべてください。
でも感動の涙までは流しませんよね。(笑)
私も毎朝の犬の散歩の途中で、神社や祠(ほこら)、それからお地蔵様にもお辞儀をします。これも海外から感動の目で見られるのでしょうか。もちろんそんなことはないでしょう。(笑)
ゴルフのマスターズで優勝するような世界の頂点に立って初めて、注目され、日本人も気づかされたのです。
日本人には、日常生活で、静かに行うもの、特別に賛美される必要はないことです。しかし、誰しもが神様がともにいてくださるということを感じて、無意識に行っているのです。これは、子々孫々に継続して伝えてゆくべき精神的伝統です。
西洋ではお辞儀の代わりに握手をします。手を握り合うことによって、武器を持っていないことを示すためと言われています。手を挙げたり、振ったりするのも、ナイフや銃剣を持っていませんという合図のためです。相手との間で、防衛上の必要性から出てきたと考えられています。
ですから、敬意とは違いますね。
日本では、古代より、大きな木や岩があれば、「そこには神様が宿っている」と感じて、二礼二拍手一礼しました。古代日本人は人と出会っても、相手に神が宿っていますから、お辞儀をしました。日本人の自然観、宗教観に根付いています。それが今日まで続いているのがお辞儀です。
お辞儀ひとつにしても、深いものがあります。こうしたお辞儀の文化を外国人が見ると、クールと思われるのでしょう。
続いて、ホットな砂漠の話をします。(笑)
世界には立派な文明がありました。四大文明(インダス、黄河、エジプト、メソポタミア)です。しかし、今はすべて、砂漠化しています。何故なのでしょうか。
小麦を栽培し続けると、表面の土に水がためられなくなります。そして、やがては砂漠化します。また、牧畜は家畜が牧草の芽まで食べてしまうため、最後には緑地がなくなってしまいます。これもやがて砂漠になります。
こうして、農耕、牧畜の四大文明はすべて、砂漠地帯となったわけです。
日本の縄文文明はこの四大文明と比べると、劣っているように見えるかもしれません。しかし、水田耕作なので、現代まで砂漠にならずに緑が豊かに残っているのです。縄文人は農耕もしました。アワやヒエも作りましたが、土地の全部を畑にはしませんでした。
森林もそうです。全部切ってしまって、ハゲ山にしてしまうことはありませんでした。何故でしょうか。
すべてに神様が宿ると考えて、山や土や水や草や木を、神様の生命(いのち)を、粗末にしなかったのです。そうした心情を持ち続けてきたのが日本人だというのです。
鹿狩りなども、猟師たちは自分たちが食べるために必要なだけ狩りをします。本来の狩りはそうしたものです。海外では趣味の範囲でする者たちもいます。動物も神様の分けられた生命(いのち)という考えを持つと、自然の中に生き物と共存できる感謝の気持ちが生まれてきます。生かさせていただきますという感謝の気持ちです。食材に対しての「生命(いのち)をいただきます」です。もちろん、調理してくれた人への労いの気持ちもあります。
人間が自然を管理するという考えは、西欧文明から来ています。この管理は間違いでしょう。
私たちは、万物主管という考えをしますね。主管と管理は違います。聖書にある、すべてのもの治めるという意味を西欧人は誤解しています。力で治める、管理するとしてしまったのです。感謝の思いがスッポリ抜け落ちてしまったのです。
そうした反省から、日本人が古来より受け継いできた精神、万物への生命(いのち)への思い、感謝を世界の多くの人々が求めるようになりました。西洋文明がようやく、その誤りに気づき、日本人が培ってきた精神的伝統・価値観に気づかされてきたのです。
これはまさに第三祝福、万物主管の時代の到来を告げていると言っていいでしょう。