かなしみはひかりとともにあった

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新年が始まったのに気分が落ち込むような話にならないといいなあ。

家庭連合のブログ村自体がすでに落ち込む内容だらけですから、こんな前置きが必要になってしまいますね。w

歌謡曲に代弁させながら、「悲しくてやりきれない」とおっしゃる方もおられるみたいですね。

この「やりきれないかなしみ」について、私の感じる世界を今回はお話してみたいと思います。

私も確かに「かなしい」のです。

ただ、私の感じる「かなしみ」は、私の生まれる前から、そう、ずいぶんと昔、創造以前から、ずっと「かなしい」のではないかと思えているのです。

日本で言えば、万葉の昔からになるのでしょうか。

大伴旅人(おおとものたびと)さんは、

「世の中は空しきものと知る時しいよいよますますかなしかりけり」と歌っていますよね。

近代になってもかなしみは続きます。

きわめつけはこれではないでしょうか。

「おれは河原の枯れすすき 同じお前も枯れすすき

どうせ二人はこの世では 花の咲かない枯れすすき」(船頭小唄)

ほんとショボすぎです。存在感情としての喪失感が半端ないですね。(涙)

現代においても、「かなしい」は歌の主題としてあまたあります。

それは人生を「悲哀」として捉えていたからでしょうね。

そうした悲哀の事実が、やまと言葉の「かなし」にのっかって、貴重なものが失われてしまう=対象喪失の感情として表現されてきたのでしょう。

喪失感と言えば、その最たるものは死かもしれません。

今も事故や災害、病気等、寿命も含めて身近な人、大切な人を亡くされた人たちがいます。そしてこれからも死は避けられないものです。

私たちの先輩シックの方々もつぎつぎと亡くなられていますね。

私の父も高齢(90歳)ですので、身近に死を意識します。

同時に自分の肉体の有限さや思い・願いがかなわない無力さも感じています。

そうした中で、不思議と死が身近になるにつれ、師(文先生)も身近になるという状況になってきています。

おもしろくもないダジャレになってしまいましたが、果たしてこれはシック特有のものなのでしょうか。

私は、死そのもは嫌いじゃないです。

さらに師(文先生)も最近では嫌いじゃなくなってきました。(苦笑)

でもなぜか、かなしいのです。

昔は「かなし」を「愛し」という漢字をあてて、表現したようですね。

シックにとって、聖和は悲しいことではないことは理性ではわかっています。

「かなしみ」には、否定的な感情よりも、「ひかりとしてのかなしみ」があるのではないかと感じています。

「ひかりとしてのかなしみ」となると、「悲しくて、やりきれない」という表現も、ちょっとニュアンスが違ってきますね。

うまく言えませんが「いとおしくて、たまらない」的な感覚が含まれるのかもしれません。

宮沢賢治さんの作品にこんな一文があります。

「みんながめいめいじぶんの神様がほんとうの神さまだというだろう。けれどもお互いほかの神さまを信じる人たちのしたことでも涙がこぼれるだろう。それからぼくたちの心がいいとかわるいとか議論するだろう。そして勝負がつかないだろう。」(銀河鉄道の夜)

このように書かれた宮沢賢治さん自身は「いとおしくて、たまらない的かなしみ」に挑戦した人のように思えてきます。

そうした一方、修羅(しゅら=戦いにあけくれる者)の意識や怒り、歯ぎしりするような「悲しみ」を自ら背負いつづけた人でもあったように思います。

分裂する「ふたつのこころ」をまとめあげるように、童話「銀河鉄道の夜」を作られたのでしょう。

私に、この賢治さんの目指した「かなしみ」を超えられるのだろうかと思うのです。

そして、師の感じた「かなしみ」をも超えられるものだろうかとも思うのです。

人生の悲哀を経験してきたシックたち(させられた人もいるでしょう)は、

その経験を通して、自己矛盾に真摯に付き合ってきた人生でもあったはずです。

おびただしいほどの哀感をともないながら、それを甘受し、「かなしみ」に親和していったのではないでしょうか。

今年に入って、ますますこの「かなしみ」や肉体の有限性を深く感受したいと思うようになりました。

そして、「かなしみ」の向こう側に豊かな魂の無限性が開かれていることを感じてみたいとも思うようになりました。

むろん、無限性の中にも「かなしみ」はありつづけることでしょう。

それでもその「かなしみ」はひかりとしての明るさ、温かさを持っているように思います。

ここで最初にとりあげた「悲しくてやりきれない」(サトウハチロー作詞の歌謡曲)について、もう一度振り返ってみます。

歌詞全文は省略しますが、「やりきれない」とは、「悲しみ」をやる(届ける)場や人がいない、受け止めてもらえないという意味でしょう。

歌の出発の心にそのような動機があったのでしょう。

創造以前にすでにこのような動機があったから、詩人の心を通して、歌詞としてこの世に生まれ出たように思います。

だからこそ、「かなしみ」の本質は、原初的な愛、それを相手に届けたいという動機とともにあるように思えてきます。

これが私が「かなしみはひかりとともにあった」と思えてくる理由です。

だから、かなしいけれど、その原初のかなしい動機にふれると、なぜかうれしいのです。

まだ多くの人たちにはこの感覚(事実)をみつめきれていないのかもしれませんが。

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