私は人とのおしゃべりは苦手です。
かと言って、相手の話を聞くだけというのも、人によりけりですが、大概は合わないと思ってしまいます。
今は、ネットを探せば、多くの偉い先生方の講演の様子を簡単にお聞きすることができますから、自分に合いそうな話を聞かせていただいています。それぞれの方達がとても為になることをお話して下さいますから、ありがたいことです。
自分の人生にとってよくわかることを語っておられ、時にはうなずき、時にはさらに考え、こういうこともありと納得することが多いものです。
そして、最終的には、では自分はどうするかという話になって、やっぱり、「天のちち、はは」「まこのちち、はは」は外せないと単純な結論に至るのです。
そんな中で、ある方の講演で、「私には志(こころざし)がある」というお話を伺いました。志とは、今の時代に大げさであるようにも思いました。私たちの日常生活レベルでは、「私には何事かをなす意志がある」ということでしょう。
「私には、今日、夕食を準備する意志がある」?
これでもちょっと、おおげさな感じですね。
「今朝は早起きして、犬が吠える前に一緒に散歩に出かける」程度になると、簡単なように思います。
しかし、これが毎日となると、簡単ではないのです。
やはり、意志がいります。雨の日もですから。(笑)
日常的な犬の散歩程度のものでも意志は要ります。
本当に大切なもの、意志や志が必要なものって、何だろうと思います。
文鮮明先生のお名前の「明」は、日と月である。すなわち、「ちち」と「はは」であるというような話を聞いたことがあります。
では「鮮明」と聞くと、英語のクリアのような意味に思われて、人柄は澄んでいて、清らかだという思いがします。
また、クリアは今では、ゲームにおける目的や課題達成の意味でもありますから、なんともよくしたお名前だとも思います。
「文」のほうは、最近では韓国の大統領と同じようで、好きにはなれません(笑)。文先生とはまったくの別人物ですから、名前にのみこだわる必要はないのでしょう。
もし、小説・劇画の主人公の名前に「文」の字をつけるとすれば、男の子であれば、文志郎(ぶんしろう)、女の子であれば志文(しふみ)というのもいいかなと思います。いずれも、文先生の志を成すという意味をこめたものです。時代劇ではありますが。(笑)
こんなとりとめのないことを考えながら、自分にも文先生の意志(こころざし)があれば、世界はもっと、鮮明(クリア)に見えてくるものだと思う、この頃です。