《本文に入る前に、台風19号で被害に遭われた地域の人々には心からお見舞い申しあげます。》
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私は「こんなはずではなかった」と言う言葉を、他人に対してよりも自分に対して言ってきたように思います。
かつては腹を立てていたこともありましたが、今は「大丈夫」と自分に言い聞かせながらその場その場を切りぬけています。(笑)
神様の摂理というものをあらためて落ち着いて考えてみると、 家庭連合(旧統一教会)の変わりゆく姿にも意味があったのであり、私自身が苦悩し、息苦しいような体験を重ねてきたことにも意義があったように思えています。
何が失われてしまったのか。
いやむしろ、これまで何を得てきたのか。こうした点をじっくり考え、反面教師として学ぶことができています。
自分として取り組むべき課題や問題に、 一息一息深呼吸をしては、その時その時を収斂させてきたこの十数年間であったように思います。
私たちが摂理の中で挑戦した堕落圏からの脱出というテーマは、個人においては独特の閉塞感や抑圧感もあって、私自身にはたいへんな壁でした。しかし、すでにお父様は聖和され、個人的には結論は出ているのです。
結果はひとりひとりの本心のみが知りえる証として、心に深く刻まれているのではないでしょうか。
自分の姿、的確な自画像を己自身で描いてみればよいのです。他人からみて祝福を受けたか否かというような陳腐な線引きはいりません。
出会った人や出来事にではなく、神様にお見せできる姿、思考の基底に内在させている多様性・多元性を許容できるかという奥深さや、そのことを誇れるかという心の深層部分が大切ではないでしょうか。
私はどこか醒めた視線で神様をはじめ、兄弟姉妹、組織をみつめてきたように思います。そうした過程でお父様や現在のお母様、ご子女様たちとも適切な距離をとりながら良心的価値基軸に基づく試論を試みてきました。
私の試みとは要するに、
「すべてのシックが真の父母になろうと思えばなれる」 という私個人においては自信でもあり、すべての人類に対しては確信ともいうべきものです。
これは言葉で表現することは簡単ですが、摂理の深層底流にある無意識的な思いとして感じ取ることは難しいものです。しかし、シックの皆様には感じてほしいと願っています。
一般社会に向けてはパラダイム(摂理時代の枠組み)が変わったと言ったほうがわかりやすいでしょう。私のブログでも、「後天時代に生きている感覚を大切に」というメッセージを発信してきました。
そうした中で後天時代を生きている(自覚している)者の感覚からすれば、もはやお母様の独生女発言に過剰に反応することは無意味なように思います。
過剰に反応する人たちは、いまだ蕩減に揺れ動き右顧左眄してその残滓に引きずられているように見えます。お母様は第三イスラエル選民(旧統一教会=古い選民)の清算のため、最後まで 【祝福と言う名の摂理的後処理】をしているのです。
後天時代の深層底流は、台風の影響を受けて流れる濁流のようなものでは決してありません。むしろ、暴風雨が過ぎ去ったあとの穏やかな秋風であり、その吹く風を感じながら水面を進みゆく船で旅するようなもの、さわやかで楽しいものなのです。
新しい選民として自覚ある後天時代を生きる者は、 今この時代にお母様とともに 古い時代を振り返える必要はないように思います。さらにもっと言えば、何人かの方々も指摘している通り、ご子女様たちにおいても、振り返るお母様を後追いし罵声を浴びせたり、ことさら シックに悔い改めを求めることも必要はないように思います。
私は自分自身に嘘はつけません。
お父様とともに、堕落圏という壁を乗り越えた者も大勢いるのです。その者たち(新しい選民)に今必要なことは、悔い改めや怒りの伝染ではありません。次のステップ(摂理)へ駆け上がるための楽しい乗り物(術=すべ)なのです。
新しい選民たちに「悔い改めよ」と足を引っ張たり、「祝福の権利はどっちに(誰に)あるのか」と迫ってみても、後天時代の指導者としての使命は果たせないでしょう。
リンゴの木を植えるにも十分な資源の投入は必要です。カネとヒトが準備されていなければどんな天国の構想も絵に描いた餅になってしまうものだからです。
そのことは神様もわかっています。だからこそ、そこそこの資金は持っていったのではありませんか?あとは古い選民に構わらずに次の摂理段階に向かって力強く、しかも穏やかに進んでいってほしいものです。そのための人材も見つけてほしいものです。
怒ってばかりいてはいけません。(苦笑)
リンゴの苗木を植えるのに言い争って植えていては基本的には楽しくありません。植えたリンゴの木もやがて枯れてしまうというものです。(苦笑)
私にとっても、神様にとっても、新しいリーダーにとっても神様と歩む人生は面白いもののはずではありませんか。
もちろん、料理で言えば、味付けとしての塩味だったり、辛みやすっぱい部分があってのコクやうまみなのですから、そうした人間味のある部分(時には争いや怒りも含めて)はあってもいいのです。ただ厳密には争いや怒りは雑味に変わってしまうものですね。
雑味はこれまでたくさん神様にお見せして味わっていただきました。そろそろ違った味覚を感じていただかないといけないと思っています。
コクやうまみは、それぞれの個性、出汁として出していくべきものです。祝福の権限は子女様が独占するものではありません。祝福家庭の数ほどたくさんあるのではありませんか?もともとはみんな(父母)が持っているものなのです。
神様も争いはもうお腹いっぱいですとおっしゃっていますよ。(笑)
後天時代 の底流には新しい選民意識 が流れています。それらは主観的であり感覚的であってもまったくかまいません。傍からみれば、特に堕落圏からは異常に見えるかもしれません。平たく言えば、うぬぼれだと見えるかもしれません。
新しい選民圏に属していると自覚している人たちには共通した意識があります。それは罪からの解放感と自由な楽しい気分です。そして時には傲慢ともとれる自由な発言です。その典型的なモデルがお母様なのです。ですからご自身を独生女と表現されていることにも意味があって当然なのです。
他の例をあげてみましょう。中には「私はメシアである」と言う者も現れるのです。これに対して、もはや偽メシアと騒ぎ立てる時代ではありません。なぜなら、メシアとしての実績と責任が問われるからです。審判は己自身の歩みの結果において衆目が見極めていくことでしょう。そのために今日の情報社会が整備されているのですから。
さらに別の例をあげてみれば、「私は二代王である」と宣言した者もいますね。また、ある者は「私は真の父母です」と公言しているようです。誰がどのように名乗り、あるいは宣言してもいっこうにかまわない時代なのです。
大ほら吹きと言われようがいっこうに構いません。(笑)
私たちもすでに氏族メシアを名乗っているわけです。この先私たちも真の父母ですと言ったところで何も問題はないでしょう。(笑)
まわりでそれらを聞いた者たちも、「それはよかった。私も実は独生女です。」「実は私もメシアです。」「実は私も王なのです。」「実は私も真の父母なのです。」とお互いにほらを吹きさらして、それぞれを認め合えばよいのです。
このように自分を自慢しながら、その根底にはお互いに対する思いへの謙虚さと尊敬の心を持って共感していくことが神様の願いです。
そこから、それぞれが思い思いに、違った分野で神様のみ旨を実践していく時代なのです。
悪夢よりは楽しい夢がいい。
これは〈やなせたかし〉さん(アンパンマン作者)の言葉です。
この言葉にも私は今の時代を感じています。スーパーマンよりアンパンマンの方がなんか楽しいんですよね。(笑)
註:世の中(の人間)に邪悪な思いが残っているのも事実です。これに対して新しい選民はしっかりガードもし、浸食されないように闘う姿勢を忘れてはいけないと思います。ただし、闘う相手は、選民圏外の人たちであって、シックどうしではないのです。このことは次回にお話していきたいと思います。
真の父母たちの連合