感性でいかに深いものをみるか


いかに深いものをみるか

今までの自分の人生を振り返って思うことは、「いかに深いものをみるか」ということであったように思います。

 

60年も生きてくると、世の中や特に人間としての心の深い部分がみえてきます。

どういうことかというと、背後の真理がみえてくるということです。

 

理にかなっていないようにみえる現実の出来事や人の言動も、じつは理にかなって必ず起こる現象であって、常にその裏側には真理(や原理)が隠されていると感じます。

 

「げんじつ(=実)の裏側は、まこと(=真)である」と覚えるようにしています。

ひっくり返すと「真実」になるからです。笑

 

 

日常的なことで例をあげてみます。

日本人は「ご縁があってお会いした」ということをよく言います。この縁というものは偶然ではなくて、必ず起こる、こうなるという出来事として、「真理」を含んでいるのではないでしょうか。

 

このブログ村における縁も、背後には真理が隠されていて、それを掘り起こせるかどうかは、「いかに深いものをみるか」という一人ひとりの知性や感性にあるように思います。

 

原理の先にはオリジナルな楽しさがある、それから闇も

「真理」や原理」とは、いったい何でしょうか。

 

感性によって、それを探すために、私が今一番心がけていることは、残りの人生を神様とともに楽しく生きるということです。お父様(文氏)のみ言で、私が好きなお言葉の中に、「一心不乱、一生懸命」というものがあります。

 

これを私流にアレンジして、「大らかに、一心不乱、一生懸命に生きる」としてみました。これを目指しながら、日々励んでいきたいと思っています。

 

「大らかに」は、肩の力を抜いて、楽しくというイメージから付け加えてみました。笑

 

私が考える楽しい気分は、「真理」や「原理」の奥からくるように感じます。

 

神様の息子、娘であるという自覚を通してくるようにも思います。

自らが神さまとともに「真理」や「原理」を味わえてこそ、楽しいのです。

そこから、自分と神様でつくるオリジナルなビジョンを描くからこそ、楽しいのです。

 

顕進様も、亨進様も、そしてお母様もそれぞれにそうしたオリジナリティーを持っていらっしゃいますね。

ですから、私(たち)も持てたらよいと思います。神様と私(たち)が描く楽しいビジョンです。笑

 

そして、小さくても自分(たち)にできる事からそのビジョンに向かって、歩みを始めます。

神様の子女としての意識(感性)から出発します。

 

ただ、こうした楽しさの前には、闇があるのです。

真実の奥に真理が隠れているように、原理の奥にある闇です。

つぎにこの闇についてお話してみます。

 

闇を感性で飛び越えていく

私は既存の考えは参考にしますが、はじめからひとつを前提としたものの考え方はしません。

ですから、原理の奥にある闇をみることができます。

 

現在家庭連合で教える「原理」では、残念ながらオリジナリティーは出せません。しかし、「役にたたない」と否定する狭い思考に陥る必要もありません。苦笑

 

 

ここは「知性」ではなく、「感性」で飛び越えていきたいと思っています。笑

今の家庭連合には感性的思考がありません。将来的にはアプローチされることを願っていますが。苦笑

 

ただ、個人的にはそれまで待てません。

なぜなら、『今、ここに問題(闇)がある。今、自分がここに生きている(私の人生がある)。』

この両者は私の中で直結しているからです。

 

ひとつの規律や統制だけでは問題(闇)を超えていけそうもありません。知性だけでは理解できないものです。

言うなれば私(たち)の目の前にはこのあとに紹介するようなマザーテレサのような心の闇が広がりつつあると言えます。

 

そこで複数の「原理」を掛け持ちしながら、理解していきます。

これを私は、「感性で飛び越える」と表現しています。

 

 

現代の神様の息子、娘たちにも、すでに闇は浸透している

私たちは大きく二種類に分類されるように思います。

神様の子女として生きようとする者(選民圏)とそうでない者(非選民圏)です。

 

現代の神様の子女は、宗教組織を超えていますから、組織として括ることはできません。

むしろ現代の神様の選民としては、無宗教のひとたちの方が大半を占めるように思います。逆に宗教組織に所属していると宗教エゴに侵され、選民から外れていくことが多いように思います。

 

いま私(たち)が心に抱いている神様の息子、娘の自覚(感性)は驚くべき恵みです。

 

マザーテレサも到達できなかった心情世界です。

マザーテレサの心の基準は全世界で認められ、賞賛されています。ノーベル平和賞も受賞されました。

 

しかしながら、死後発見された神父との書簡には彼女の心の闇が告白されています。

 

『主よ、あなたが見捨てなければならない私は、いったい誰なのでしょうか? あなたの愛する子供は今、最も嫌われ者になっています。あなたから求められず、愛されず、私はあなたから捨てられてしまいました。私はあなたを呼び求め、すがりつきますが、あなたは応えてくれません。』

『闇はあまりにも暗く、私は孤独です。求められず、見捨てられて、私は独りぼっちです。愛を求める心の寂しさに耐えられません。』

 

このような告白をせざるえないマザーの苦悩は、神様の子女でありながら、孤独な闇に覆われてしまった彼女自身がみた原理の奥にある闇を表すものです。

 

神様の子女として自覚する私(たち)にもこうした闇が広がりつつあるのです。

神様の息子、娘たちに当然襲いかかる闇です。

 

組織と分派間で起こる表面のいざこざの背後では、すでに一人ひとりの心の背後に闇が入り込んでいることを見抜いていかないといけません。

 

光を求めて

感性で、「いかに深いものをみるか」ということでお話してきました。

私たちは、原理の奥にある闇を自分の感性でみることができているでしょうか。

 

家庭連合は、表面的には、組織内部の不正、腐敗を抱え、分裂しています。社会に対しては反道徳的だったり、違法だったりという現象も引き起こしてきました。

 

その背後で、一人ひとりが抱える問題、神様との関係はどうだったのかという闇は、誰も解決できていないのです。お父様やお母様、ご子女様も同様に神様との関係に関しての闇はお持ちなのです。

 

この問題(闇)に取り組んでいくのが、新たに選ばれた選民たちです。神様の子女を自覚した選民たちです。

 

選民であっても、個人の次元で神様を感じることはできても、孤独という闇からは逃れられない宿命を持っているのです。

ここを脱するには真の父母の心情圏が必要となってきます。

このことを今強く感じています。

 

闇の中を覗き込む(直視する)ことは勇気がいります。怖くもあります。

しかし、すでに「原理」の奥にある闇を私たちは少しずつ垣間見させていただいているのです。

 

真の家庭に闇が少しずつ広がりながら、すっかり覆い尽くす様子を直にみさせていただいたでしょう。

 

真の父母様(文、韓夫妻)の中の闇をみさせていただいたでしょう。

 

私(たち)にとっては、むしろ闇を感じないことが怖いことなのかもしれません。

闇は目を開けていても感じることはできるものです。気配でわかるのです。

闇を感じることができる。これが神様の子女としての感性であるかもしれません。

 

さらに闇の先にある光も感じることができます。

 

原理の奥に広がる闇の先には、まちがいなく光があるのです。

私の感性は今もそのことに強く反応(確信)しているのです。

 

ただ、「その確信の根拠は?」と聞かれても答えられません。

苦笑いするだけです。

ちょうど、恋人の目を見つめ、手を握って、「絶対大丈夫だよ、ぼくにはみえる」と言っても、「ありがとう」の返事ではなく、「その根拠は?」と聞き返えされたようなものだからです。

 

原理の奥、その先は、感性で尋ねていくしかありません。

 

私(たち)が、原理の先の闇を越えて光を求めるためにです。

そのためにも、私(たち)は、『真の父母』を目指して歩んでいきます。

 

 

 

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