不安からの解放について
某セラピストのブログに以下のような心の在り方を提案しているものがありました。
――――――引用はじめーーー
私が誰かを愛していて、相手は私を愛していない時
私が誰かを受け入れていて、相手は私を受け入れていない時
二人の間には何か障壁のようなものが存在し
流れが悪くなり、滞る。
そんな時のその人は、自分を愛していなくて、自分自身を受け入れていない。
ただ、それだけなんだな。
――――――引用おわりーーー
ここでは「相手を丸ごと受け入れて譲れる心」ということを言い表したいのだと思います。
このことを実践しただけでも、私(たち)の心は覚醒して、相手に対する不安から開放されます。世の中の多くのセラピストやヒーラーたちも実践してマスターしています。
ただ、私(たち)の場合は、さらにここを出発点としていきたいと思います。
もちろん愛されないから、愛することをやめるのではありませんよ。(笑)
不安のもとは、自らの内側にある存在を見失っていることにあります
人生の中で、孤独な状況でも愛し続けるということが可能でしょうか。
もう一度、自分を取り巻いている不安を意識してみます。
自分の心を観察してみます。
受け入れられないときは、不安になりますね。
現代社会には不安があふれています。ですから、常に不安でいっぱいになってしまいます。
例えば、私(たち)は、今こんなことをよく耳にします。
「もうすぐ、あなたの乗っている船(家庭連合)が沈みます。山の上に逃げなくていいのですか?」
「北からミサイルが飛んできます。逃げ場はありますか?」
いずれも客観的な事実を言っているのですが、そこから私(たち)の思考は不安の信号を送りつづけているのではないでしょうか。
私(たち)は、未来を推測して、考えて、不安になってしまうのです。
危機感はあって当然ですが、不安の感情が入り込むと、客観的視点が欠けてしまいます。
この不安のもとは、自分の内側にある存在を見失っているという状況なのです。
救命ボートは、心の在り方であり、新しい一族の未来生活
危機感に対する冷静な対応としては、救命ボートを準備することやミサイル防衛体制を整えることに意識をしていけば良いのです。そこからさらにもっと良いアイデアも出てくることでしょう。
ところで救命ボートは、H1,H2のところへ行くことではないと思います。
救命ボートは正午定着した者が自前で創る「己の心の在り方」であり、そこから広がる新しい一族の未来生活です。
そのために、私(たち)がまずできることは、『自分の内側にある存在に気づく』ということです。
『自分の内側にある存在と一緒に愛し続ける』ことです。
これができれば、決して孤独ではありません。相手が受け入れなくても丸ごと受け入れていくことができる状況が自然とできて、不安から解放されていきます。
体恤(たいじゅつ)意識による生活
ずいぶん前から、私(たち)は侍る生活を指導されてきました。
侍る生活から、さらに『体恤(たいじゅつ)意識による生活』にシフトしていくほうが、今の摂理感覚にあっているように思います。
『自分の内側にある存在に気づく』と、神様と一緒に生活しているという感覚が生まれてきます。
神様は愛の主体ですから、愛することは得意です。しかし、愛の共鳴圏、愛の結晶からの美は、それほど多くは受け取っていないようです。
私(たち)が愛し続けることで、輝き、美しさを放ち、神様との心情一致を味わっていくとどうなるのでしょう。
また、様々な音(音楽)、様々な景色(絵画、写真)、様々な味覚(食物)、様々な体験(心情)の中から美しいものを感じとって、私(たち)が美しいと感じることが、そのまま神様もそのように感じているんだなあと実感できてくるとどうなるのでしょう。
私(たち)は、愛を与えられ、生命を与えられ、血統を与えられました。
神様にも美を感じていただけるように、直感と感性と理性を磨きながら、毎日の生活の中でこうした「体恤(たいじゅつ)意識」に目覚めていくとどうなるのでしょう。
体恤(たいじゅつ)意識は、『自分の内側にある存在』から一方的に強制されたり、教えられたりするものではありません。ともに学び、ともに教えあい、与えあいながら、一緒に創り上げていく心の深層的な真の美意識です。
今ある危機意識(不安ではありません)も、体恤(たいじゅつ)意識で、知恵を得ながら、やがては体恤(たいじゅつ)生活、体恤(たいじゅつ)家庭、体恤(たいじゅつ)天国として進化、成長した基盤となっていくことで、救命ボートやミサイル攻撃からの防衛体制となっていくのではないかと願っています。
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