映画の中の人々に思う
私は二十代の若い頃、教会に献身して修道生活のような生き方をしていました。そんな生活の中での楽しみのひとつが映画館で観る映画でした。
その時に観た映画の主人公が印象深く心に残っています。
映画「男はつらいよ」シリーズの主人公フーテンの寅(とら)さんは日本では人気者です。でも私にはこの国民的映画「男はつらいよ」の主人公・車寅次郎(くるまとらじろう)の生き方には違和感があります。
主人公の寅(とら)さんのような生き方を映画ではおもしろおかしく、ときには自由人のように描いていて、多くの人が好意的に受け止めていたようです。しかし、私自身は何故か寅(とら)さんの生き方が童話の「アリとキリギリス」に出てくる夏のキリギリスを思いだしてしまい、せつなくなりました。
私自身も修道士のように、一生を独身で過ごすのも良いという覚悟でしたから、内心複雑な思いがしたものです。(苦笑)
映画のシリーズが続けば続くほど寅(とら)さんの先々がさみしそうでやりきれない思いになり、何作目からかは一切見なくなりました。
個人としての生き方、人生のあり方だけですめばよいのですが、寅さんの生き方を称賛することは、民族、国民のあり方となれば深刻にならざるをえないように思います。
ただ寅次郎(とらじろう)役の渥美清(あつみきよし)さん自身は、私生活ではカトリック信者の奥様と二人のお子様がおられたようですね。
マザーテレサの心から笑うことのなかった人生
映画を観る人たちは、フーテンである寅(とら)さんは自分とは関係のない世界の人として観ますから笑えるのかもしれません。同じような境遇や少なくともそのような環境に身を置いている者にとっては心から笑えません。
後々のことになりますが、マザーテレサの心の闇を知るようになりました。
彼女は修道士(修道女)の限界と宗教の限界を抱えていました。
心から笑うことができなかった人生だったような気がします。
マザーテレサや映画の中の寅(とら)さんは「神様から愛されることにとても臆病な気弱さ」があったのかもしれません。
マザーテレサと寅(とら)さんとでは一緒にできないと思われるかも知れませんが、私は原理によって家族・家庭を持つことの意味、家族愛が神様にとって大きな価値があることを知るようになりましたので、同じように思えてしまいます。
私はそれまで独身で生涯を終える決意をしていましたが、それを止め、祝福を受けました。しかし、家庭を持ってみるとそこでも心から笑うことはできませんでした。(苦笑)
いぶし銀の人生
今は映画の中では、寅(とら)さんの妹〈さくら〉やその夫〈ひろし〉の生き方に共感を覚えます。特に〈ひろし〉の生き方は映画的にはおもしろみのない人生です。一生を東京・柴又(しばまた)の地に根をおろして、家族や地域とともに生きていく平凡な職人役です。
しかし、私にはどこか愛着を覚えます。
そんな地味ではあるが実直な〈ひろし〉が義理の兄である寅(とら)さんに一言ポツリと語りかけます。
「義兄さん、家族っていいものですよ。」
六十を過ぎた私にとっては心に染みる一言です。
〈ひろし〉役の前田吟(まえだぎん)さんには、幼少時代から両親を知らない生い立ちがあります。
そのせいか役柄にいい味を出しているのです。
吟(ぎん)さんだけにいぶし銀の一言といってもいいでしょう。(笑)
ただ、家族愛はその先を越えることが難しい一面を持っています。
私は家庭を持つ(祝福を受けた)ときから、そのことは何となく感じていました。
簡単に言えば、「祝福を受けても、私は心から笑えるだろうか?」、「そんな原理はないだろう?」と思われたからです。
人生は、「人が生きる」と書きます。
私が生きていくことを人生というなら、原理を知っても心から笑えない人生とは何だろうと思えてしまいます。
最近は、そうした人生も人それぞれにいぶし銀として輝いているのではないかと思うようになりました。(笑)
次回の最終回は家族愛を超えていくことはできるのかというお話です。
最後までお読みいただきありがとうございます。