日本人に神社がある意味


私達日本人は、無自覚かも知れませんが、聞こうと思えば神様の声はいつでも聞こえます。その装置が神社です。

これまで、あまり気づかなかったかもしれません。しかし、神社の果たしている役目は大きいように思います。コミュニティとか、共同体としては、私は今まで教会での生活、人間関係がありましたが、それが社会に出て、会社組織で働くようになると、共同体としては会社仲間であったり、地域社会での集まりに変っていきました。教会コミュニティから出た当初は、一般社会は俗社会だと思って嫌っていた面もありましたが、なぜか、神様の声はいつも聞こえていたように思います。

不思議なのは、神様と私の橋渡しには、なぜか神社が関係していました。勤めていた会社の社長さんが神棚を会社に作って日々熱心に参拝していましたし、最後は神社まで敷地内に作ってしまうという方でした。

以前にもお話しましたが、この会社に勤務していたときに、私(私だけではなかったのです)がパワハラにあった時に、意地の悪いその上司を心の中で「除いてほしい」と念ずると、会社を辞めざるをえない事情ができて、去っていくということがありました。最初は偶然と思っていましたが、別な時に、ご近所でも評判の守銭奴な地主がいたので、ある事件を切っ掛けにその方の店のまわりを三回ほど回り、念じてみました。すると、その後その店は閉店する事態となりました。このことに気づいてからは、会社でもご近所でも、一切念ずることは止めにしていますが、この念ずるというスタイルが神社イメージ(陰陽師的)でした。

今年に入って、これは私とは直接関係ないと思っていますが、私の住む地域の氏神様を支える氏子衆の半数近い町内会が氏子を解散するという事態になりました。神社へのお仕えが地域住民の負担になっているようです。大総代(おおそうだい=神社の祭礼責任者)が私と同級生でしたので、その方に頼まれて、氏子で残った町内会の住民に今後についてのアンケートを取ることにしました。その結果は、八割近くが神社の例祭の実施には消極的という結果になりました。おそらく、今後は神事のみを細々と続けていくことになるかと思います。神社に関わりを持って、微力ながら、お手伝いできたのは良かったのですが、小さな神社については今後、墓じまいならぬ、神社じまいになることも考えられます。その神社は、もともと宮司が常駐していない小さな神社ですが、私にとっては神社というものがよりいっそう身近になる切っ掛けを作ってくれたような気がしています。

そもそもこの「社会」なる言葉の意味が、社(しゃ=神社の意味)の会(会う=集まりの意味)になっているのです。神社の祭りに地域の人たちが集まるところから共同体が形成されていったようです。会社もその流れになります。私の勤務していた会社の敷地にも会社の規模には似合わないくらい立派な鳥居と神社の祠があったわけが分かるような気がします。(笑)

日本人は神社(全国に八万社あります)を通して、ずっと昔から神様と繋がっていたということを何となく感じて生活しています。今日も大相撲をテレビ観戦しました。この相撲も神事なんですね。神様に神事として奉納されていたんですね。今後、一神教の神様も一緒になって定着していくということがどういうことなのか。世俗的でありながら、一方では神様を自然と感じる社会が日本にはあります。大上段に構えて、宗教と政治、宗教と国家の分離とか言わない、ほんわかした、まったりした世界観がこの日本にはあるようにも思います。

そろそろ夕食の時間になりました(笑)。

日本人は、食においても、宗教的タブーなものはありません。ただし、いのちを捧げてくれたことに感謝するこころは忘れません。たくさんのいのちをいただくことに、「いただきます」と祓いの言葉をかけます。そして、お箸は横向きに置きます。これは、いのちを捧げたものと私(人間)との間に結界を引くという意味があるからです。日常の中にすでに神様がおられるからです。中国、韓国もお箸を使いますが、このように横には置かず、ナイフ、フォーク同様に縦に置きたがります。是非皆様も尊いいのちに手を合わせながら、おいしい食事をお楽しみください。そして神様につながる、いただきますのこころを感じながら。

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