俯瞰とは、神様の目で見ることです


 

正午定着から理性的に判断する

「いまここに」という視点は、心を無にし、過去のとらわれや、現在の迷い、未来への心配から解放させてくれる心の在り方、正午定着の始発点です。

 

この位置は、心の揺れをおさえ、鎮める役目があることを先回お話しました。

 

今回は、そこから視野を広げ、俯瞰してみることをお勧めしています。

 

私にとって、正午定着は、「いまここに」からさらに視点を広げて俯瞰することができるように感じています。

 

私が「今、ここに神様とともに在る」という安らぎを得ると、様々なアクシデントや情報が飛び込んできても、物事を冷静に俯瞰してとらえられる心構えができてくるようになるからです。

 

もちろん、なかなかその境地になることは、簡単にはいきません。私自身、反省ばかりの毎日ではありますが。(苦笑)

 

ただ、ある出来事(情報)によって生じる不安や焦り、とらわれを軽やかに受け流すことを何度か試みていくようになると、心は動き回らないで、右往左往しないようになってくることに気づいてきました。

 

この状態では神様と共鳴して、エネルギーが満ちてくることも感じとることができます。

 

そしてここから、今ある状況に対して冷静な判断を下していくことができるようになります。

 

私の場合、この判断は、あくまでも理性的になされていくことになります。決して、怒りや非難などの感情に左右されたものではありません。

 

ですから神様の願う方向と一致させることができます。

 

身近な例題で実践してみる

身近な例題を用いて、実践(心を落ち着かせて、冷静に判断)してみます。

できるだけ、気持ちを落ち着かせてとりくんでみたいと思います。

よかったら、皆様もごいっしょにどうぞ。

 

例題:サンクチュアリ教会の聖婚式(2017年9月23日)について

サンクチュアリ教会が、新たな摂理として、聖婚式を行いました。これは亨進様のご家庭における摂理とみることができます。つまり、亨進様ご夫妻が「真の父母として立たれるための摂理」と思われます。

では、私自身が「真の父母として立つために必要な摂理」でしょうかと自問してみます。

 

私自身には必要ない摂理だという答えが返ってきます。もちろん、これは人にもよると思いますから、必要だと思われる方もおられることでしょう。

ただ私には、お父様が祝福をなさった動機が既に私の中に心情血統として引き継がれているという実感があります。ゆえに必要ないと自然と思えるのです。

 

過去のしがらみとして、お母様とお父様の不仲という事実が私の心にあります。さらにその原因は、お父様の複数の女性関係に対してお母様の積年の嫉妬、恨みであるとも感じています。

 

お父様が摂理として、複数の女性と関係を持たなければならなかったという摂理は何となく理解はできても、お母様のお心はついていけなかったということでしょう。

 

この何となく理解ができる摂理が曲者です。私自身も本当には理解しているとは言えないからです。

 

腑に落ちるように理解するには、同じ立場と境遇(摂理)を通過しなければわからないと理解しています。

 

私が現段階ですべての摂理を理解することは難しいのですから、受け流していくようにします。こうした姿勢は表面的には、家庭連合の歩んでいる方向(過去のしがらみを無視する)と同じように見えます。

 

私が家庭連合と違っている点は、より広い視野に立って状況を見ることができる点です。すなわち、正午定着の位置から、神様の目線で見ることが可能だと考える点です。

 

逆に考えると、今までの私は真の家庭について、その摂理的内容の部分的一面を見て判断しようとしているにすぎなかったということです。言わば、焦点を摂理の表面の孤立した点に合わせていただけかもしれないと考えます。

 

顕進様のご家庭においても、同じように摂理が存在します。こちらも亨進様同様に「真の父母の立場に立たれるための摂理」です。こちらはお母様が元の位置に戻られるまで「根気よく待たれるという摂理」です。

 

摂理とは神様の責任と関与が大きいものです。ですから、今の時点で私には神様のすべての思いがわからなくてもよいわけですし、必要もないわけです。また、摂理とは、神様と当人のみが感じとるものとも言えるからです。

 

一見、まったく違う立場をとられるご子女様たちではありますが、表面的な内容とは違って、むしろ、より深いところに共通点があることがわかります。

 

それはみ旨という点から見出せます。

ともに「真の父母になる」というみ旨が存在すると考えます。

 

 

そして私(たち)の目指すところも同じところです。やはり、私(たち)にもご子女様と同じように、「真の父母」を目指すというみ旨があるのです。

このことを思い起こしてみると、「真の父母たちによる連合」というワードも浮かんできます。

 

真の家庭がどんなに揺れようとも、表面的に別の道を歩まれようとも、自分や自分の基台が神様とつながることが切実であると考えます。

 

今は、み旨を私(たち)は最優先します。そしてこのみ旨は、私(たち)が唯一確実に、私(たち)の決断と実践で可能にすることができるものです。

 

神様につながるとは、誰それに従う、あるいは組織につながることとは大きく違います。もし、そうであるとするなら、誰それがずれれば、組織が歪めば、私(たち)もずれたり、歪んでもよいことになってしまうからです。

 

み旨には、自らが実践するという理念があります。

神様や他人が代わりにやれるものではありません。

 

結論を言ってしまえば、「他人がしたことは、自分がしたことにはならない」のです。

また、「本然の生き方を知っていること」と「本然の生き方をすること」とは違うのです。

 

 

家庭連合のシックも、亨進様ご家庭も、顕進様ご家庭も、個人におけるみ旨を成すために、すなわち「真の父母として立つ」ことに全力で歩むことが、与えられた環境と摂理を通しての神様の願いです。

 

さらに人類すべてが真の父母になることが神様の願いです。その責任を果たそうとする自覚が個々人にあれば、その目的を果たすための方法(摂理)は違ってもよいと思えます。

 

人それぞれにおける個性に応じて、摂理の中での生き方があって、違ってもよいのです。ただみ旨においては、ひとつになれるように連携して、目的地を明確にしていく必要があります。

 

それが今の段階では、「真の父母になる」という共通ワードで表現できるように思います。

 

そこから、家庭連合は「真の父母たちの連合」へと変わることも可能だと感じています。

 

以上、このように私の心を整理してみました。

 

俯瞰という実践を終えた感想

なにか、すっきりした感じがあります。そして、新たな希望と責任を自覚したしだいです。

 

皆様はいかがでしたでしょうか。

 

それでは、残りの人生を、特別に大切な人にも、そして身近な人にも、精一杯心をこめて尽くしながら、さらにみ旨にまい進してまいりましょう。

 

 

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