哲学用語でペシミズム(悲観主義)という言葉があるのはご存知でしょうか。今回は、この語にひっかけて、ポスト家庭連合時代の超ペシミズム的生き方を提案していこうと思います。
超ペシミズムとはペシミズムをもじった私の造語です。まずは語の意味から説明してみます。
ペシミズム(悲観主義)の対義語としてオプティミズム(楽天主義)がありますが、ペシミズムを乗り越えていくという意味合いを込めて、語の頭に超を付けてみました。ペシミズムの逆を行くのではなく、垂直に天上を突き破るイメージとでも言いましょうか。
一見、悲観主義のように見えますが、楽天主義ほど脳天気にはなれない。そこからちょっと、もがいてみよう。諦めの悪い,あがき主義とでも言いましょうか。(笑)
例え話でもう少しお話します。
『コップに水が半分入っているとき、「まだ半分ある」と考えるのがオプティミズム的考え方。「もう半分しかない…」と考えるのがペシミズム的考え方です。
超ペシミズム的考え方は、「もう半分しかない…」「だったらさらに、半分足してコップを一杯にしよう」というかなり欲張りな考え方でもあります(笑)。
しかし、現実にはそう簡単に半分足すことはできないでしょう。だから、「もう半分しかない」、あるいは「まだ、半分もある」と考えたとしても、いずれであっても半分は半分なのです。いっぱいにはなりません。どうやって、一杯にするかという壁は歴然としてあるのです。
これを打開するヒントがあります。
文先生の囚人生活時代に、他の囚人に自分の食事を半分与えながら、まだ半分あると思いながら歩んだというエピソードがあります。しかし、週に一度は、ご自分の食事の半分を他人には与えずに、ご自分自身にも半分与え(半分足すと考え)ました。このことで生きる希望が持続し、飢えと死の恐怖を超えていったというのです。このエピソードが事実であるのか、否かは問題ではありません。
こうした思考回路が実に超ペシミズム的だと思いませんか。
「もう半分しかない」という思いは、誰でも当然に湧きあがるものです。いきなり、「まだ半分あるから、さらに半分足せばいい」という考えは、「半分ある」というその場からは決して出てきません。
ではどこから出てくるのでしょうか。
もう半分しかないという時点で、さらにその半分を分け与える場からしか出てこないのです。そうすると分け与えた後では、「まだ半分ある」と必然的に考えないと(追い込まないと)生きてはいけないからです。
さらに自分自身にも分け与える場を創り出します。そうすることによって、はじめていっぱいであるという感覚を手に入れることができるのです。こころが希望でいっぱいになるからです。
ペシミズムの考えだけでは、究極的には「人間は生まれてこないほうがよかった」という立場になりやすいものです。みなさんも一度はこうした考えを持ったことがあるかもしれません。私も昔はよく考えたものです。
世界で、毎日2万人以上が餓死し、事故による死者が毎年350万人、自殺者が毎年80万人以上います。さらにコロナ感染ではすでに死亡者が世界で250万人を超えました。
こうした世界を見て行きつく先は、「人間は生まれてこないほうがよかったかな」となります。そこからさらに神様さえも呪うことになっていきます。統一教会や文氏、その家族を怨むシックのみなさんの心の根底にも、「なぜ私を生んだの?」「なぜ私が苦しまねばならないの?」といった怨みが横たわっていそうですね。
これは実にやっかいな考えなのです。しかし、教会内の内輪もめだけに限らず、現実世界は不条理です。ですから一定の説得力はあるでしょう。シックに限らず、誰もが大なり小なり怨むものです。
私たちは、生まれる前に苦しみの種をすでに持っているのです。ただ、そのことを自覚していないだけなのです。生まれてから、世の中の不条理に出会って初めて自覚することになるわけです。世界というものは現実の世界だけではなく、生まれる前の世界、死んだ後の世界もあるということですね。
私たちが関わっていないような、太古の出来事、先祖や民族の記憶、人類全体が体験してきた諸々の記憶も私の中の心の根底にはあるのです。闇の意識と呼べる世界かもしれません。
その闇の意識世界を突き破っていくのが私たち一人ひとりの使命だったのかも知れません。ですから日本人の多くのシックが苦しんだのですね。
ところでいきなりですが、家庭連合・韓国人の選民意識は糞ですか?
確かにそうでしょう。(笑)
日本人はその糞をつかまされたのです。でもしっかり握っていて離さないでくださいね。(笑)
これを運(うん)をつかむと言いますから。(爆)
私たちは半分しかないものも、それをさらに半分にして与えてきたではありませんか。今度は私たち自身にも半分を与えましょう。ここから希望でいっぱいにするためにです。
日本人の選民意識は韓国人の選民意識をつかんで離さなかった結果、神様から希望を与えられたのです。
私は日本人シックは神様に民族として(国家基準で)繋がったとみています。まことの父母のイメージを持てる国はそう多くはありませんよ。
残念ながら、お父様お母様は、韓国において、国としての父母には立つことはかないませんでしたね。そして、これからもないことでしょう。
しかし、私たち日本人シックは、まことの父母のイメージを持つことができました。さらにそのイメージをもって、日本という国を神様につなげていくことが可能となったのです。
なぜなら、すでに実体の国父、国母がいらっしゃるではありませんか。このことが非常に重みのあることなのです。
私たちには、あふれんばかりの光と恵みが降り注がれています。これからはもっと希望に満ちあふれていくことでしょう。
もちろん、このことで私たちが尊大になる必要もありません。ただ、けっして卑屈になることも必要ないと言えるでしょう。
すでに、神日本となったのですから。