ポスト家庭連合時代の思考について(前半)


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みなさん、こんにちは。

今日は会社が休み(コロナ禍で生産縮小による計画的な休み)となりました。個人的には、月曜に出社しないのはなんだか単純にうれしいな。(笑)

富士山も初冠雪だとか。気候も涼しくなり、気分もいい感じですよ。

午後のひととき、アイスコーヒーからホットに切り替えて、音楽を聴きながらこのブログを書いています。

さて、本日のタイトルです。

【ポスト家庭連合時代の思考について】です。

要するに、今の時代「何とかなるって考えてみては?」ということなんですね。(笑)

いきなり、いいかげんな発言になり、失礼しました。(笑)

まずは簡単に宗教(神)と人間についてザックリとみていきましょう。

人間は本質において、宗教的生き物なんだから、どうしたって何かをどこかで信じないといけないわけです。例えば、夜寝る前に明日の朝に目が覚めることを信じて眠るわけですね。そのように信じないと安心して熟睡できません。(笑)

家庭連合おいても、そして選民圏として神様から愛されてきた現代キリスト教においてもこの信じるまでは良かったのですが、そこからの脱却が課題だったんですよ。

夜寝る前に「明日の朝、目が覚めても覚めなくても、どっちでもいいや。神様にお任せ。」とはならなかったんですね。「まだまだ、やり残したことがあるとか、小さい子供や愛する妻を残しては死ねない。」とかね。(笑)

信じきる、信じきったその先まで行き着けなかったわけです。

ですから今も脱宗教(宗教を脱構築)を考えているというのが今日までの大きな流れ(摂理)なんです。

結局のところ何かを信じないないことには人間は生きていけないということが今も課題となっているわけですね。

無神論者は無神論の信者であり、合理主義、理性主義者は合理性の信者というわけですね。

私なんかも脱宗教しても、神は心の中にいるという良心革命信者であるわけですから。(笑)

宗教の持つ危険性については、人類はすでに気づいてしまっているんですね。それでも信仰はやめられないわけですね。ですから、今はうまくバランスを取って、既存の宗教は求心力の低下を避けるため、世の中に合わせて中身が薄いものになってきていますよ。あるいはガチガチの根本主義者(福音強硬派)であるかですね。(苦笑)

神様は最初から宗教の危険性はご存知なので、人間をいったん外に置いて宗教の克服、脱構築を願われてきたわけなんです。

知識人の常識として「神は妄想」というのはこの考え方ですね。でも肝心の神様ともずいぶん離れてしまいました。

そこで「神様は上にいる」のではなく、「神様はひとりひとりの心の中にいる」と考えるようにした(摂理された)わけです。今日のプロテスタント主流派の考えとなっていきますね。

このプロテスタント主流派の考えに乗っかて、脱宗教(宗教の脱構築)を計画されたのが文先生だったわけですね。

しかし、シックがその意図を理解できなかったので、脱宗教に失敗して、二十世紀後半から原理主義(聖書を文字通り信じる)が台頭したり、あるいは既存宗教を嫌ってスピリチュアリティ(体系的教義なし)へと人々の関心が向けられるようになっていったわけです。

家庭連合が脱宗教に失敗した理由は、【恩寵と感性、onetasteさんのブログ、蕩減思考と祝福家庭】に詳しく述べられていますからご覧になってくださいね。

結論から言うと蕩減思考から本然の思考へ移行できなかったからですね。

ここでちょっと休憩します。犬の散歩の時間なんで。(笑)

続きは次回。

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