罪の意識(原罪)にとらわれない生き方
他人が原罪があろうがなかろうが関係ないことを知りましょう。
大切なことは、自分が原罪がないと感じているかどうかだけなのです。
あなたが原罪がないと感じていても、人類の誰一人不幸にはしませんから。(笑)
むしろ、罪の意識(原罪)を感じていては、自分自身が不幸に感じてしまいます。(苦笑)
罪の意識(原罪)にとらわれない人は当然、他人の罪の意識(原罪)にもとらわれません。
ですから、お母様の完全性を否定する必要もないのです。
お母様の独生女について、お父様の無原罪について、議論があります。
それら議論すること自体に、神様の完全性、さらには自分の完全性をも信じていないことになります。
疑うことになります。
他人の無原罪を喜べなかったり、無原罪を嫌っていては、あなた自身も無原罪の意識にはなれません。
「原罪がないこと」が力を持っているのではありません。
「原罪がないと意識している、意識できる自分が存在すること」が現実を豊かにしていくことになります。
あなたが罪の意識(原罪)にとらわれていないなら、お母様(や他の人たち)が無原罪であっても気にはなりません。
むしろともに喜び、天国実現へ向かって、もっとステップアップすることができることでしょう。
お母様の無原罪やお父様の無原罪に抵抗する気持ちは要りません。
無原罪の世界では、苦労や犠牲の「対価」を払う必要はありません
今まで人類は多くの犠牲、苦労をして原罪のない世界を求めてきたと言われています。(少なくとも統一原理の摂理史観では)
本然の世界、創造原理の世界は無原罪は当たり前です。
ですから、自分の好きなことを楽しむことが当たり前であるのです。
苦しい、犠牲の対価を払って、何かをすることの必要のない世界です。
お母様、お父様が無原罪であるなら、そうした意識を皆が持つべきはずです。
苦労や犠牲の「対価」を必要としない意識です。
また、原罪の意識に苦しむ人たちをみても、イコールそれが不幸だとは思わない意識です。
なぜなら、必ずお母様、お父様、自分と同じように、罪の意識から解放される、そのようにできることを知っているからです。
ただ、神様もそうですが、アドバイスはできても、人それぞれの人生に手は出せないことも知っています。ですから、じっと見守るのです。
摂理の時は大きく変わっている
あなた自身が、あなたの人生をどう生きるかを決める時代です。
罪からも解放され、お金や精神的豊かさも享受して、人生を楽しみたい、それができる時代だということです。
人を羨んだり、蔑んだり、恨んだりすることはもう終わりです。
自分の好きなことを楽しんで、夢を神様とともに実現する時代が来ているのです。
そうは思いませんか?
追記
昨日は軽井沢に団体ツアーで行ってきました。
森林の中を歩いてきました。
歩いて元気になって、体力ができて、
でも徘徊するようになっても困ると
誰かが冗談に話していましたが。(笑)