皆さん、こん○○は。
ずいぶん寒くなってきましたね。先日紅葉狩りに行ってきましたよ。
紅葉がほんとうにすばらしい。
すっかり癒され、気持ちが浄化されて帰ってきました。(笑)
さて、今回もポスト家庭連合時代の思想(思考)について考えていきます。
人生における事柄を「良いもの」「悪しきもの」に分けてその一方を肯定し、一方を否定する対立的な想念はどうなのかなと思っています。
物事を良いもの、悪しきものに分けても対立概念にまでもっていかないように、分けたところまでで一旦とどめておくようにしています。
「すべては人生の中で神様から与えられたもの」として捉えると、何かそこに意味を感じますし、最後には自分の人生そのものを愛せるように転換できていくように思います。
お母様が生まれながらに原罪があるのか、ないのかという事も対立概念として捉えると、あるいは論理的思考で、一方を肯定して、一方を否定するという考え方でいくと、私たち祝福家庭はいつまでたっても平安や安心感にたどり着けません。また社会への恐れや孤独感という現実も越えられません。
弁証法は「正・反・合」のプロセスで止揚を目指しますが、私たちは「正・分・合」で止揚(統一)することを考えていきます。分立されたそれぞれは、一見対立的に見えても統合できてしまうものなんです。なぜならもともと正から分かれたものなんですから。
お母様の原罪ある、なしについても考えてみますと、もともと原罪はなかったわけです。私たち個人においても言えることです。堕落論では心を本心と邪心に分けましたが、本来は本心のみでした。
これまでは本心と邪心の闘争と衝突の時代でしたが、これからは闘争歴史も終わりにしないと。私たち自身が本心と邪心を統合・統一し、創造本性を示していかないといけないわけですから。
そうした統合、統一された本性の観点から考えると、お母様が生まれながらにして原罪なしとおっしゃられるのなら「そういうことにしておきましょう」となりませんでしょうか?
疑わないというか、こだわらないと言ったほうがいいのかな。(笑)
では、お父様についてはどうか。これもお父様ご自身が原罪がないとおっしゃっている(メシア宣言されている)ので、そういうことにしておきましょうではだめでしょうか。
お父様、お母様がお互いを相手の側には原罪があるとされていることに関してはお互い様なんですね。お互いに「お疲れ様」ということです。(笑)
一方を肯定、一方を否定することはしません。どちらも肯定、そして場合によってはどちらもスルー(干渉しないように)します。こうした考えは絶対肯定の考えです。
要は私の心が喜ぶかどうかなんですね。論理的思考だけだと理屈に合わないとそこで止まってしまい、み旨が先に進めないわけです。(苦笑)
しかしながら、右脳的ワクワク感からするとお父様、お母様両者原罪なしで問題ないでしょう。(笑)
つまり左脳右脳がうまくバランスが取れているということなんですね。
真の父と真の母に良いも悪いもありません。
そこにあるのは、今生きている私を生みかえてくださったという感謝だけなんです。
これが絶対愛の思想、絶対肯定の思想です。
ただし「私説」ですが。(笑)