先日の犬の散歩は気持ちが良かった。
散歩中は、自由な問いの時間でもありました。
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自由は静的には成り立たないだろう。
人間は生きている限り、何らかの実践を行う。
自由は具体的な立脚点・出発点をもつがそこにはこだわらないほうがいい。
「どうするか?」「どう進むのか?」自ら問いを立て、それに答える(動き)において自由は意味を持つ。
み言を「言うこと」は現実の中では普遍性の条件であろう。
しかし、特定の出発点を絶対化した場合には、その普遍性を失う。
み言を「言う」ことは「自由」であるがゆえに非基準性を持つ。
しかし、み言を「言うこと」を消してしまうと、後に残るものに普遍性はない。
自らの動きによって、「普遍性に置き換えられる可能性」は見出せるのだろうか。
単なる出発点として、自らの特異性を置き換え、「消してゆく」ことで、普遍性は体現可能となるのだろう。
潮目が変わったのだ。
家庭連合は終わり、大きく転換していることは疑いようがない。
宗教的正統性には「自由な」選民の総意がいる。
信頼を毀損しないこと。
それが今後、神話となるか、ヨタ話となるのかの分かれ目となる。
「信頼」とは一人一人が誇りを取りもどすことに違いない。
それは自由な問いかけから始めていくことになるだろう。
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