ポスト家庭連合(家庭連合の終焉から見た自由ということ)

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皆様お久しぶりです。 goodlifeこと通称ダムです。

いつの間にか、巣ごもりの日々であっても窓の外はすっかり新緑に染まってきましたね。

ところでポストモダンという言葉を聞いたことがあるでしょうか。

現代という時代を近代(モダン)が終わった「後」として特徴づける言葉です。

これをもじって、ポスト家庭連合、すなわち家庭連合が終焉した後について考えてみようと思います。題して、「ポスト家庭連合」(家庭連合の終焉)です。

もともと、ポストモダンについては哲学、思想、文学、建築の分野で近代を批判した上で、その終わりを直観、相対化しながら、その時代の終わりを示してきたものです。

では何を批判してきたのかと言えば、真理、規範(例えばマルクス主義や国家主義、資本主義の正しさ)に対して不信を抱いたのです。文化や歴史が異なれば、真理や善悪の判断が違ってくるからです。

そこから「差異」が強調され、多様な方向へと分裂、差異化していくことになります。その内実は「内的自由」を模索して、正しさは正しさ自身のためにあるのではなく、人間の自由のためにあると考えたのです。しかし、個人の「正しさ」「正義」「自由」に固着するという限界を超えて、世界や現実の矛盾を克服するための新しい社会構想までには至りませんでした。

一方、ポストモダン思想に対して、宗教は人間のさまざまな表層を削ったときに最終的に残る核について追及してきました。ある人にとっては命であり、または魂と呼ぶものであったり、キリスト教のスピリットであったりもしました。そこからさらに、私たちはみな「霊」であるという考えから霊的成長を通して神に近づくことを考えるようになりました。

もちろん、ポストモダン思想による個人主義、私生活主義、さらにはグローバリズムと言った背景の中で、必ずしもすべての人が統一原理の解く個性真理体に即した自由の考えを支持したわけではありません。あくまでも一つのオプションに過ぎないというのが現状ではないかと思います。

それを踏まえて、私たちは家庭連合が終焉した今は後継問題についての原理的根拠に多くの時間を割くというリスクは背負うべきではないと思っています。

絶対的な正義や一人の個性真理体(メシヤ、あるいは真の父母、ご子女様たち)に固着しない方が良いのではないでしょうか。

もちろん、それぞれ(各シック、各家庭)の個性真理体をおろそかにしないという姿勢は続けるべきだと思います。

具体的生活の場面で「私」や「私の家庭」がどう歩むかを決めること、そのことが問われるという前提においてこそ「自由」になる方向が見えてくる(立ち現れてくる)からです。

個別的具体的なものに即しつつ、絶対的な正義への固着から離れて神様の声(問い)に応じることの中で、どのように天国を実現していくかという創造力やどう整備していくかという努力が発揮されていく、そのもの自体が自由であるからです。

ポスト家庭連合(家庭連合の終焉)は、自由が単なる非決定性(自分では何も決められない)と言うのではなく、神様からの具体的な問いに対して自らが答えを成立させていくという実践時代の幕開けと言えるでしょう。

とてもすばらしい時代になりましたね。w

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ポスト家庭連合

 


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