新しい利他主義とは

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利他主義と聞くと、利己主義の対比で語られることが多いのですが、最近の世界の流れとしては、新しい利他主義の考えが出て来ています。

この新しい利他主義者とは、自己犠牲を必ずしも伴うことはしません。今までの利他主義者のように、何か自分の生活を犠牲にしてまでも行動することもありません。

むしろ、自分以外の人の為にする行い、奉仕は自分がよりいっそう輝き、花開くことだと確信して、積極的に自分にできる最大の貢献を行うことに関心を寄せています。

私も、地域の自治組織に参加していますが、自分の生活を犠牲にしてまで奉仕しているという感覚はありません。むしろ、楽しみながら地域の皆様のお役に立てることを考え、実行しています。もちろん、古い慣習があったりしますから地域の長老からは常に煙たがられてはいますが、(笑)。

よく言われることに、収入の一割を何らかの慈善事業や団体等に寄付すれば良いということを聞きますね。しかし、これからは、自分の好きなだけの割合でするのが新しい利他主義者です。また、収入を多く得るという目標の中に、寄付の割合や絶対額を増やすことを最初から入れて、仕事に励む若者もいます。

収入の半分(六桁の数字)を毎月寄付するために、この仕事をしたい、それが可能な仕事を選ぶというわけです。もちろん、彼らがこうしたことが実際可能なほど優秀な能力を持っていることは言うまでもありません。

しかし、さほど収入がなくても、この新しい利他主義者にはなれます。質素に暮らしながらも、収入の一部(一般的な一割よりも多く)を寄付に回す人もいるからです。

また、寄付をせずとも、新しい利他主義者として貢献する道はいくらでもあります。ボランティアと聞くと、自己犠牲によって、奉仕するイメージですね。ボランティアの皆さんは、手弁当で被災地に駆けつけ、支援するための労力を惜しみません。

これを自分が交通費を払って被災地に出向き、奉仕活動をした後、帰りには近くの観光スポットに寄って、ボランティア兼旅行を楽しんできた場合はどうでしょうか。

この行動を非難をしないまでも、複雑な思いで受け止める人たちも多いことでしょう。しかし、これが新しい利他主義の考えなのです。自分も楽しみ、強制されないで、やりたいことを他人のためにもするというものです。

もう少し別の現実的なお話をしましょう。皆さんは死後自分の臓器を誰かのために提供する意思はおありでしょうか。私自身はまだ、そこまでは決心できていません。それは、相手(臓器の提供を受けた方)の顔が見えないからです。私たちは他人に対してよりも、より身近な顔の見える家族や親せき、友人、仲間といった人たちに心が動きます。人ごととして見てしまう人間の悲しい性があるからでしょう。

しかし、これも将来的にはきっと、自分自身が納得できるような結論が出せるようになると思っています。今はできることをすればよいのでしょう。これも新しい利他主義です。ひとつだけの結論にこだわらないというものです。

福音書には、キリストの言葉として、「持てるすべてのものを売り払い、貧しい人に与えなさい」というものがあります。お父様も総生畜献納とやらをおっしゃられました。私も持てる全てのものを差し出しました。そうしたら、にっちもさっちもいかなくなりました。(笑)当時、こうしたシックもけっこう他におられたようです。

しかし、これは一生に一度くらいは挑戦してやってみてもいいでしょうが、何度もやるものではないと悟りました。おかげで死ぬ思いをしましたから。(笑)

新しい利他主義は、すべてを与えることはしません。そんなことをしたら、次の年から、もう何も与えられなくなってしまうからです。(笑)

これを「他の為に生きる限界に挑戦せよ!でも家族が楽しく生活できることを優先していいよ。」というように私の人生訓では、書き換えてあります。すなわち、新しい利他主義です。

ポスト家庭連合の時代は、ほんとうに良い時代となりました。もう悲惨な利他主義はやめてもいいんですね。

落ち込んだり、みじめになったりする自己犠牲は必要ありません。罪人や悔い改めをやたらと連呼する声を聞く必要もありません。

説教・み言で人は変わりません。み言を実践してみた結果、失敗も含めて、その経験から自分が学んで得た、神様との関わりによって変っていくのです。

ですから、私はこれからも神様に関わりながら変っていくでしょう。そして、今は感謝しかありません。

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