「まことのふぼ」から「まことのちちはは」に呼び方を変えてみました。すっきりした感があります。(笑)
これは「生命」を「せいめい」と読むのではなく、「いのち」と読むのと同じ感覚ですね。血統も「けっとう」と読むのではなく、「つながり」「きずな」と読ませたほうがいいような気がします。
今日は、中国、韓国と比較しながら、日本(やまと)について、その違いを放談的に話してみます。それではさっそくはじめましょう。
日本の天皇は「くにのちちはは」ですが、中国の皇帝は為政者です。日本の天皇は、国民を自分の所有物にするのではなく、自ら万民の幸福を祈る立場であることを自覚されています。中国の皇帝にとっては、民は草のようにあとからいくらでも生えてくるものと考えています。民草はぞんざいに扱われています。
皇帝や王はおごりたかぶり、贅沢をします。日本の歴代天皇にはそのような方は誰一人もおられません。
日本では、「みんなと仲良くね」と言って、おかあさんは子供を学校に送り出しますが、韓国は「負けるな」「一番になれ」と言って送り出します。
では、中国人のおかあさんは何と言って、子供たちをおくりだすのでしょうか?
答えは、「だまされないように」「だまされる方が悪いからね」と言うのだそうです。そういう社会なのですね。子供の頃から世渡り術をしっかり教えているようですね。
日本人は「おかげさま」の世界で生きているので、「だまされないように」は馴染みません。しかし、近年はそうもいかなくなってきました。それは韓国人、中国人という人種がだましても平気、ウソも平気でつくことがようやくわかってきたからです。(ロシア人についてはここでは触れませんが。苦笑)
中国や韓国では自分本位の人が多いのでしょうか。不信とだまし合いのうえに築かれた社会のようですね。最近、家内が韓国在住の日本人から聞いた話をします。また聞きなので、聞き違いかも知れませんが信じられない世間話を聞かされました。
隣りの家から、御馳走があるからと誘われて行ったら、料理をふるまわれたそうです。それがなんと、料理の中身に最近いなくなって捜していた愛犬の肉が入っていたという話です。遠い昔に韓国は犬を食していたらしいという話ではありません。つい最近の話なのです。それ以来隣家とは付き合いはないそうです。隣の家の奥様は、もてなしの気持ちだったのかもしれませんが、日本人には理解できません。
犬を棒で生きたまま、たたきまくって、「こうした方が肉がおいしくなるのよ」と言って食べる韓国人がいるようですが、日本人としては、こうした行為もとても理解できません。さらに、その上をいくのが中国です。斉の国王に仕えた宰相は、自分の子を蒸して、その料理で王の機嫌をとったということです。中国では誰もが知っている、最高のもてなし方の話で、美談になっています。食にたいして貪欲なのですね。
あいさつも、「おはよう、こんにちは」よりも、韓国は「食事をしましたか?」です。しかも、夜の九時、十時でもこのあいさつです。中国では「あなた食うたか?」が一般的です。日本人にとって、何を食ったのかは聞かないほうが精神衛生上いいでしょう。
日本人は、大会とか催しがあると、反省会を開くことが多いのですが、中国や韓国にはこの反省会がないようです。つまり、反省を一切しない人種のようです。実際には一人になった時に誰にも見られずにこっそりするらしいのですが。(苦笑)
そのせいか、泥棒が多いそうです。マンションの一階、二階は危ないといわれています。窓には当然のように刑務所のような鉄格子があり、玄関の鍵は三重になっています。日本では落とした貴重品が戻ってくると、外国人に驚かれます。
韓国の巫女のところには、官災(クワンジェ、役人除け)のお札が売られています。賄賂をせがむ役人が多いため、そのための厄除けです。清平でも売っていそうですが、清平では巫女自身が賄賂を取っていましたから、効き目は疑わしいでしょう。(爆)
聖人と言われる孔子ですが、もともとは中国の専制政治のタテマエをのべる、言わば支配階級のための統治哲学を説いた人です。ですから、中国人の食人習慣を孔子は批判しません。もちろん、本人も人肉のしおからは毎日食べていました。孔子の愛弟子の子路も、敵に殺されて最後は食べられています。儒教は特権階級のためにあって、ひろく人民のために、人の道を説いたものではなかったと言えます。
日本人によって、王のための専制政治を維持する儒教が様変わりしたのです。つまり、修身道徳哲学として毒抜きされていくのです。儒教は日本に入って来てから、新しい生命(いのち)を与えられ、素晴らしい人生の指針となっていくのです。
中国では血のつながっている家族と一族共同体、仲間集団が疑似家族共同体となっている社会です。習近平主席のもと、中国共産党が疑似家族共同体と言えます。こうした疑似家族では、身内の不祥事を外に漏らさないのが人の道であり、徳として教えています。中国の公とは、国全体を指しません。孝も忠も一族共産党のためだけにあるのです。
これを日本人は、忠と孝を一緒にして、一族から国という民族、国民共同体にまでレベルをあげて創り直したのです。日本には万民が人として生きるそれぞれの人生があり、文化、自然を一緒に楽しむ精神世界を大切してきましたので、外からの毒(政治)をうまく制することができたのです。
かつて、韓国人総会長が、「修身斉家治国平天下(しゅうしんせいかちこくへいてんか)= 天下を治めるには、まず自分の行いを正しくし、次に家庭をととのえ、次に国家を治め、天下を平和にすべきである。」ことを話されていましたが、裏を解せばシックを従わせ、抑え込む道具、手段、政治目的に利用したと考えるべきではないでしょうか。どの総会長もその振る舞いはあたかも皇帝か王のようでしたから。
皇帝は、徳をウソでも言い続けなければいけません。徳あるポーズだけでもしなければ、天子の座を追われることを知っていますから、絶対に詫びたり、反省はしません。中国皇帝に徳などもともとありません。また、その帝位を盗んで、次の皇帝になる者にも徳などありません。天命を受けたと称したタテマエだけで、最初からウソで始まり、すべてがウソになっているのです。
日本の天皇は自分が最高に徳があると気取る必要はありません。それどころか、国土に天災が起きれば、自分の不徳を反省して、自分を責めます。そして、広く国民に不徳の責任を詫びる詔(みことのり)を発します。
韓国は中国の完全複製なので、暴力革命(易姓革命)によって王朝が交替します。徳を説く余裕などありません。中国、韓国は、王朝が暴力によって交替すると、王は権力を私物化し、人民を搾取、収奪することが自分の身を守ることだとずっと信じてきたのです。生きるために、ウソも、盗みも、正当化されてきたのです。
日本の神道は山や海、動物など自然を拝みます。ところが、中国人、韓国人はこの感覚がわかりません。先祖しか拝む対象になりません。万物は堕落していないということが、本能的にわかる民族ではないのです。動物はウソをついたり、騙したり、盗むことをしません。
中国人、韓国人は自分の欲得で、一族の現世的成功を願い、先祖を祀ります。日本人は、先祖に対して、清く、正しく生きることを願い、誓います。ところが中国人は、墓参りの時、墓前に生花の代わりに模造の米ドル札を供えます。なかにはダッチワイフまで供えるのです。韓国人はどうなのでしょう?霊性とは無縁な即物的人種のようです。
こうした国に日本の和の心(公徳心)は通じません。日本は歴史を通じて奴隷はいません。中国や韓国には奴隷はいました。性奴隷という表現は、韓国人の鏡イメージ(=自分たちと同じことを他の国も振る舞うだろう信じている心理)から来ているのです。
中国では現在進行形で、ひとつの民族が抹殺されようとしています。中国史の中で、大量虐殺は都市ぐるみで行われてきたから平気なのです。日本では、城主ひとりの腹切りで、残りの者は許されてきたのとは大違いです。
韓国人は日常、相手を出身校や収入、親の社会的地位によって、即座に自分との上下関係を区別する社会です。そのため、家族ともども海外移住が夢なのです。米国への移住が一番人気があります。韓国の場合、貧しいから移住したいのではありません。エリートも金持ちもみんな、機会があれば海外に永住したいと願っています。ですから、韓国人は本音を言えば息が詰まるほど、住みにくい国だと自覚しているのです。その自国を愛するのではなく、うっぷんを晴らしたいが故の愛国的なポーズなだけなのです。米国に長らく住んでいて、外野から朝鮮統一うんぬんを言ってるようなもので、説得力はないのです。
まだまだ、放談続きそうですが、「まことのちちはは」に止められましたので一旦止めます。(笑)
中国・韓国人シックの皆さんは面白くないとお思いになっておられることでしょう。それとも国は悪いが、私は悪くないと思われるでしょうか。
日本人シックの皆さんはどうでしょうか。その通りだと思われたでしょうか。アメリカ人のシックはどうでしょう。関係ないと思われたでしょうか。
日本人シックの皆さんは、まことの父母(ちちはは)になるための路程を歩んでいます。日本民族全体が皇族圏として庶子から実子圏に向かっている途上と考えられます。韓国人、中国人、アメリカ人、それ以外全シックもこの大きな船に一緒に乗っていくことができます。そのために、お互いがどうすべきかを考える必要があります。文先生は本来、韓国にこの大きな船を建設する予定でしたが、韓国選民の失敗により果たせませんでした。
神様は大急ぎで、日本民族を選民として、直線と円環の時間軸以外に「今というとき」の摂理をされました。ユダヤ教、キリスト教、家庭連合(統一教会)、そして宗教を超えたところに新しい枠組みを創られたのです。既存の宗教の枠組みとは違うところにです。
日本人シックが〈未来の我〉の呼びかけを自覚するなら、そしてその呼びかけを聞くことができるなら、「まことのちちはは」、天皇皇后両陛下の心情を土台にして、国家的基準を超えていくことができるでしょう。