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超ポジティブとは何か

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桜の季節もそろそろ終わりになってきている地域もありますね。私の地方は八重の桜がそろそろ楽しめそうな季節になりましたよ。

月曜日から水曜の朝をのんびりできるのはありがたいですよ。分別したゴミを慌てて出しに行かなくてすむ、というのが主な理由なんですが。(笑)

本日は雨なんで、里山登山を止めにして、コーヒーでも飲みながら、人の「心」について考えてみました。

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個人や社会の幸福を考えるとき、個人は言うに及ばす、社会の担い手は「人」です。その個人個人の価値判断に基づいて、様々な幸福(高い、低い、深い、浅いなどの違いがあると考えられる)があるのではないでしょうか。

誰でも幸福を志向する「心」を育てています。しかし、いったいどれだけ心と私の関係について知りえているのでしょうか。

「心」の中には、いったい何があるのでしょうか。

近代よりも前の時代、心の中には宗教や道徳、倫理などがありました。人にとっての幸せや正しいこと、善いこととは何であるのか、どのような生き方が良いのか等、明確な選択肢がありました。

難しい教義を詳細まで理解していなくとも、「そんなことをすればバチが当るよ」「お天道様はお見通しだ」といった感覚が当たり前にありました。生き方の目安として、個人や社会を律していたのです。

近代に入って、宗教や道徳、伝統的な倫理感などの持つ影響力は格段に小さくなっていきます。宗教の非科学的な教えが権威を失っていきます。また、国家が宗教、道徳、倫理を恣意的に利用してきたことにも嫌気がさしたことが理由でしょうか。

現在は、幸福や正義といったイメージは多種多様となり、個人の好みに任されていると言ってもいいかもしれません。小学校入学前の女の子が漆黒のランドセルをほしがる時代なのです。

宗教、道徳、倫理が力を失ったばかりではなく、思想も無数に枝分かれしてきています。日常生活での行動判断基準も、損か得か、儲かるか否かだけではない時代になってきました。個人の快、不快が多様化してきています。

幸せにつながる生き方がどのような生き方なのか、そのためにどのような行動を選択するのがよいのか、判断することの目安が一定に定まらない時代だと言えるでしょう。

そうは言っても方向性としては、人生をあるいは日常生活を生きるに値する、充実したものにするには、ポジティブ(プラス=楽観)思考で生きるのがよいと言われています。心がポジティブ(プラス)とは、楽しい、うれしい、豊か、ついてる(ラッキー)、明るい気持ちのことになります。前向きな気持ちとも言いますね。

ポジティブ(楽観的)である「心」の状態は健康という身体的事実をもたらします。ポジティブな感情が身体の健康と関係するのか、因果関係があるのか、有名な研究があります。

それは「修道女研究」と呼ばれ、1930年代に18歳で入会したノートルダム修道女についての追跡調査です。入会時に信仰の喜びを表した作文を書いていた修道女と、原罪や罪の意識を多く語った修道女との比較です。後年の彼女たちの健康や生存率との関係を調べたものです。

ポジティブ感情がある修道女はポジティブ感情が低い者と比較して長寿で健康であったというのです。85歳時点での生存率が前者が90%に対して、後者は34%でした。

明るい気分がその後の人生において、長寿と健康をもたらしたということは、さほど驚くことではないでしょう。現在の我々から見ても当たり前の話です。

しかし、ここで注目したいのは、原罪や罪の意識をもって生活していた修道女たちなのです。なぜなら、彼女たちはまさしく、かつての私たちの分身だからです。

原理を学び、統一シックとして半生を生きてきた者にとっては、原罪や罪は日常生活に密着したものであったはずです。(一部能天気なお戯れ教会幹部連中は除外しておきますが。)

果たして、統一シックは心のあり方を変えることができたのか、心からポジティブになれたのか、人生は変わったのか。

お母様に原罪があるとか、お父様に原罪があるとか、こうしたことは自分自身の「心」のあり方について、とりわけ日常生活の中では優先順位は低いように思います。

精神を解放し、ポジティブ感情を持つことによって、認知や注意力や視野などが拡大して新しい気づきや悟りを得ることができた等々、シックの誰もが明るい気分に変わっていったのでしょうか。

日常生活の中にはもちろん怒りもあります。ふざけるなと思うことも多々あります。ないという人は、すでに心が化石化しているか、よほど世間とかけ離れたところに暮らす人たちでしょう。

怒りなどのネガティブな感情は寿命との相関関係はないとされています。ネガティブ感情の大小が寿命や健康に影響するのではなく、あくまでもポジティブな感情の度合いが影響を与えると言われています。ですから、怒ってもそれに引きずられず、笑いに転換できることのほうが重要です。

ここで、もう一度「心」の中に何があるのかを問うてみましょう。

様々な価値観といった、その先にあるものです。感情とか本能でしょうか。原理のいうところの本性でしょうか。

私は神様が一番奥の奥におられると感じています。私たちの心はまさに至聖所だからです。

神様も怒るし、妬むし、ネガティブ(マイナス)感情も爆発させます。しかし、ポジティブ感情もそれ以上に溢れていてバランスをとっているようです。

たいがいの人間は、年齢とともに、怒りを反転させながら、許しとか、許容に変換していけるようになります。私も、若い頃と比較してコントロールできてきました。世間で言うところの相手の顔も立てる術を習得しました。見て見ぬふりもできます。臭いものにも蓋をして、素知らぬふうをよそおうこともできます。

よほどのことがない限り、相手はまだまだ子供なんだなと思うようにして、顔には出さず、あっさり相手の言動を許せます。

そんな私も譲れないことがあります。

自分が生涯かけて歩んだ道が、つまらない価値のないものだと他人からは言われたくないという点です。

でもこれもいずれは個人的にこだわりを捨てていくことでしょう。他人からみてどうでもよいことかもしれませんからね。(苦笑)

こういう心境になれたのも以下の話を耳のしてからです。

世の中の高齢男性のお棺事情についてです。

湯灌(ゆかん=遺体を入浴させる)の時、自分の一物の貧弱さ(この場合大きさだけではなく、包茎であること)がバレてしまい、生前にさんざん偉そうなことを言っていても案外たいしたことはなかったねと、陰でもの笑いの種にされるそうです。本人がそう思い込んでいるだけなのかもしれませんが、当人には耐えられないほど落ち込むようです。もちろん落ち込むのは生前において心配している時点での話ですが(苦笑)。そうした男性は80歳すぎても手術をしてまで己自身を立派に仕上げて、あの世に旅立つようです。女性にはわかりにくい話ですみませんが、男性としてはわからない話でもないのです。

誰でもこだわりのひとつやふたつあってもいいものです。お父様においても、死ぬまで天国入籍や地上天国にこだわっておられましたよね。

自分の下半身が貧弱かどうかはともかく、私たちは心が貧弱であるかどうかにこだわることも必要かもしれません。ただ、心は生まれたときからついてきたものです。これからは最後まで大切にすることのほうがずっと私には気分がいいことのように思えます。これは夫婦関係においても同じです。お互いに相対者は大切していきたいものですね。

そうして死ぬまで自分なりのこだわりを持って生きた後(それはポジティブに生きた中での話ですが)、いざとなったらあっさりとそのこだわりもいっさい捨て去れる、そのようなしなやかさを一方では持つことができたらよいのにとも思います。

なぜなら、ポジティブの世界を超えたところが、天国の入口であるように思えるからです。私たちにはそうした超ポジティブの世界が待っているように思えるからです。

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