令和に生きる

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令和の時代が始まり、一カ月になろうとしていますね。

いきなりですが、皆さんは令和時代の始まりに何を感じていますか?

今回は、令和の代替わりに私が感じたままを 意味づけしてお話してみたいと思います。

ちょっとこじつけになるかもしれませんが。(笑)

令の字の意味(*註参照)から考えてみます。この字の持っている言霊(ことだま=個別性としての思い)は、人々が集まり神様のお告げを聞くことを意味します。

(*註:令の字の上の部分、傘のような形は冠で、礼冠(らいかん)をつけて、神様の声に聴き入っている人々の姿を象形しています。)

礼冠(らいかん)とは平たく言えば儀式のときの王冠だよね。日本では皇太子さまがご即位されて、私たちにも具体的な姿として見せてくださいました。その前には亨進様も過激な冠で示されてはいますが。(苦笑)

ところで、私はご即位の前後に、皇居と明治神宮になぜか行きたくなって(天使から促されて)、行ってきたんですよ。(笑)

それぞれの場(意識の痕跡)から悟ったことは、令和という時代は、「象徴的実子圏のはじまりを意味するのかなあ」って感じたことです。

皇太子の位置というのは嫡子ですよね。神様を知る者にとっては実子圏を暗示すると考えられますものね。しかも皇太子から天皇にご即位されたということは、皇后とともに国民の父母の立場に立った(父母圏を持った)ということ。象徴的とは言え大きな意味があると思いますよ。

もちろん、こうしたことは亨進様ご夫妻についても言えることでしょう。しかし、即位継承の過程においては、日本の天皇家ほどスムーズに進まなかったようで、非常に印象が悪い(讒訴が残っている)のです。(苦笑)
家庭連合、三男派からみると勝手に進めてしまったと思われて、なんだか韓国歴史ドラマの王位継承ドロドロ劇を見せられている感じがしてしまうね。(涙)

恨みを全部見せているところは逆にすごいなあとも思うけど、今の文家(韓家)は恥部丸出しって感じがするね。(苦笑)

古代においても、人々の感情は素朴で直接的だったからね。かれらは祈り(呪詛)において、哀訴し、時には強訴もしてたんだよ。韓国人はデリカシーがないのか?実は素朴なのかな?ただ、私自身も含めて自らの祈りには裏表があってほしくはないとは思うよね。(苦笑)

さて、令という字から、実子として神様と繋がる時代圏となってきたと感じているとお話してきました。だから、それがどうした?と言われそうですが。(笑)

こうした時代を迎えて個人的には、ことばにもっと思いをのせて、神様と直接の交わり(祈り)をしていきたいと思っています。ただ、あくまでも神様との間においてだけどね。これを人間どうしでやると角が立つからね。(苦笑)

そうそう、神宮の森(明治神宮境内の中にある)でも感じたんだけど、文家やご子女様たちにどうのこうの言う前に、自分の家庭内のことしっかりさせなあかんって、 天使から言われちゃいましたね。(苦笑)

世間でも夫婦を長くやっていると角がとれてくることに気がつくよね。でも最後のところが越えられないよね。真の父母様の夫婦仲もどうにもこうにも厳しいままなのかなと思ってしまうけど、今もこのことはタブーなんだよね。天使もこの点は後ろ向いたままでだんまりだからね。(苦笑)

話が少しそれました。戻すね。(笑)

令と同じ意味では命(めい)という字があるよ。はじめ命は、「令」で表したそうだね。古代中国社会では、大切なことはどんなことでも、神様に祈り、神様の声を聞いて決めていたようだね。

祈りによって、令の横にサイ(註:参照)を添えたから、命(めい)になった。だから、命(めい)は神様の意志に添って生きる意味を表しているんだ。

( 註:令に添えられた口の形は、くちではなく、祝詞(のりと)を収めた箱を表します。)


礼冠(らいかん)を着けた人(=実子)が祈りの中で与えられる神意が、「命」(めい)となるわけ、つまり、天命ってことだね。そこから、天命にそって生きるという意味で、生命(いのち)となって与えられているわけだね。

今回の改元が象徴する 命(令)への自覚、そして献身が、神様の血統を知る者にとっては天命を自らのうちに持つことになるのかなって、思っているよ。

そこから、令のあとに続く「和」が大事だね。それぞれの家庭(天国)に与えられた宿題になるからね。

和の意味を考えると、日本の平和、世界の平和なんだろうけど、身近なところでは親子、兄弟、夫婦仲良くということなのかもしれないな。すごく、当たり前なんだけどね。(笑)

和の左側のノギ偏は、戦争の時の陣営の門を表しているよ。形は鳥居を半分に切ったような感じがしているんだけど、これは私個人の感覚的なものだけどね。

この軍門の横に口の形をしたサイ(祈りを収める箱)を置いて、戦争を止めることを当事者同士で誓ったわけ。神様に誓うわけだから、最高の和議になるよね。

首脳会談とかも、この際(サイ)、このサイが必要なんじゃないか・・・、なんちゃって。(つまらないダジャレですみません、笑)

神様を前にして、家庭連合、三男派、七男派でこの和ができないので、それぞれのもとにいるシック(私たち)にとって困ることがあるね。それは神様の実子としての誇りを失ってしまったということなんだ。

文家の血筋が繋がっているので当然のことのように実子を主張しても、それは神様の血統を誤解しているからね。
血筋ではないんだな。

神様に直接に繋がっているという自覚・喜びなんだよ。

だから神様の血統は、和の中にこそあるべきもので、神様の実子としての誇りと言いかえてもいいものなんだよ。

天皇家で言えば、万世一系の男子(血筋として)を強調するけど、あくまでも人間世界における「変わらないもの」としての象徴にすぎないよね。神様の血統を考えるなら、もっと内的な精神的なもの(霊性)を考える必要があると思うんだけど。

文家の血筋や継承を裁判で争っても北朝鮮の個人崇拝と何ら変わらないよね。むしろシックたちが 神様の実子としての誇りを失ってまで、ご子女様やお母様を個人崇拝していてはまったく意味がないし、むしろ悲しいよね。

最後に余談なんだけど、うちの飼い犬は家内が一番偉いと思っているみたいなんです。家内の言うことはよく聞くんだな。こうした点は家庭連合みたいだなと思ったよ。(爆)

令和元年はじまりました。

これからもよろしく。

それではまた。

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