私たちはたくさんのみ言に接してきました。
そして、このみ言が私たちを導いてくれると今も信じています。
その結果、どうでしょう。混乱と焦燥、時には失望が私たちの前に立ちはだかっっています。
果たして私たちはみ言を学び間違えたのでしょうか。それともみ言そのものが間違っていたのでしょうか。
私は、誰もが皆、み言はよく学んだと思っています。そして、み言そのものも決して間違ってはいないと思っています。
ただ、多くの人たちが、「動機の選択」を間違えたと考えています。
例えば、「絶対信仰」、「心情一致」、「体じゅつ」は、実際「何を信じたいのか」、「何と心情一致したいのか」、「何を体じゅつすべきなのか」がわからなかったのです。
動機の選択は自分の責任ですべきものです。
人それぞれの岐路に動機の選択肢があったはずです。そして、その動機の選択を間違えたのです。
端的に言えば、選ぶ選択肢が「ねばならない」「しなければならない」であったら間違いです。
「したい」「喜んで」という心の声に従う選択肢であれば今日の混迷はなかったでしょう。
私は入教(献身)して3年目にこの壁にぶつかりました。その時点で、気がつけばよかったのですが(薄々は気づいていましたが)、最終的に自分が「したい」「喜んで」「好んで」という選択はできませんでした。
ただ、入教(献身)して15年が過ぎて、動機を転換して、そこから人生は変わったのです。自己イメージが変わったのです。自己イメージとは、自分らしくというときの中身(自分)です。
自分は「堕落人間だ」あるいは「堕落性のある人間かも」というイメージを変えたのです。
すなわち、「自分は本性的人間だ」あるいは「正午定着できる人間かも」という具合です。
そして、今また新たに「真の父母になれるかも」または「いずれはなるよね」という自己イメージが概念として浮かび上がっています。
これは、「戦争のない平和な世界をつくる」というゴールと一致したものです。
しかし、この「真の父母になる(真の愛の人になる)」にはまだまだ、試練があります。
越えられない試練は与えないのが、神様です。ですからきっと越えられる、そう心に抱いて試練に臨んでいきたいと願っています。
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