~ 師観先輩のように生きたいなという話 ~
夢のような話
南北首脳会談がありました。
南北統一はまだこれからというところでしょうか。
今回も「血統と性について」考えていきます。(笑)
師観先輩のブログ記事を参考に引用させていただきます。
ブログ記事の引用文は『 』で示しました。必要な場合にかぎり、引用文中に補助的説明を加えています。出典元のブログ記事タイトルは省略しています。
先回は「血統」が性欲の方向性を狂わせ、愛で性を主管できなくしている、性欲が暴走する原因は「血統」にあるというお話で終わっていましたね。
今回はさらに「血統」について考えてみます。
「血統」という用語は日常ではほとんど使用しません。私のような中高年者が日常的に使用するのは「血糖」「血糖値」のほうでしょう。(笑)
しかし、原理人(げんりびと=原理講論を学んだ人)にとっては必須用語です。「血統」はセックスと結びついたイメージで、かなりインパクトをもった特別な用語になっています。(笑)
つまり、
【セックスで「血統」が変わる】
【天使長とエバのセックスでサタンの血統になった】
【アダムとエバのセックスでその子孫(人類)はサタンの血統を受け継いだ】
こんな感じ(こう考えているよう)なんですね。(笑)
私はこれを「原理人(げんりびと)の妄想的セックス血統論」と名付けています。(笑)
血統は「動機」という心の性質を言うのです。
教祖(メシア)と煙が出るほどにセックスを何万回やっても心(血統)は変わりません。(爆)
心(心のありかた=動機)は、心(本人のそうありたいという思い)でしか、変わらないのです。
アボジは神様の血統につながることは「夢のような話だ」とおっしゃっています。まさに原理人(げんりびと)にとっては韓半島の南北統一同様に夢のような話かもしれません。(苦笑)
心の中の不良な彼氏とは別れたいな(笑)
私は、神様の血統に入るには「性欲のとなりの不快な隣人」とは別れる必要があるとずっと思っていました。
この「不快な隣人」がいる限り、私にとっては性欲もセックスも気持ちよくないからです。私にとっては夢のような話ではなくて切実な話です。(爆)
例えれば、良家との縁談(神様の血統へのお誘い)があるとしましょう。今まで付き合っていたストーカーの不良彼氏とは何がなんでも別れる必要があるわけですね。
極めてドライで打算的な話でもあります。(笑)
サタンの讒訴=性欲のとなりの不快な隣人
「血統」を狂わせている元締めは「性欲のとなりの不快な隣人」です。先回は「性欲のとなりの不快な隣人」はサタンの讒訴であるとお話しました。
サタンの讒訴劇場の撮影ワンシーンを見ながら簡単におさらいしてみましょう。(笑)
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シーン6
〔きれいなおねえちゃんを見て、Aは抱きつきたいと思う。〕
監督:「アクション!」
Aの理性:「いきなり抱きつくのは犯罪でしょう!」
Aの良心:「いい大人がそんなことするわけないじゃん。私は思っても行動には移しません。紳士ですから。」
Aの性欲のとなりの不快な隣人:「思っただけでも、アウトだからね。聖書的には。」
Aの理性:「すると、やっぱ俺は堕落しているのか?ショック!」
Aの性欲のとなりの不快な隣人:「そだね~!それ種(たね)だね~。サタンの種(たね)だね~。」
Aの良心:「なんか、不快なモヤモヤする気持ちなんだな。葛藤するんだよね。」
監督:「はい!カットゥ!いったん休けい!」
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こんな感じで、心の良心の呵責とサタンの讒訴の声が起こるわけです。(笑)
もちろん表面は紳士面してますが。(笑)
ーー 讒訴劇場の撮影ワンシーンを見ての一般人の感想 ーー
「思うぐらいで行動に移していないなら問題はないでしょう。」
「人気アイドルグループTOKIOの山口くんは、女子高生にキスしようと手を出したから犯罪です。でも思っただけなら無罪。」
「人間(男)だもの。思うぐらい当たり前でしょ。何を悩む必要があるの?俺なんか年中妄想してるぜ。(笑)」
「一般社会(法治国家)は思うだけでは罪(犯罪)ではないし、思うだけなら取るに足らない当たり前の小さなことです。無視してスルーです。(笑)」
「縄文時代からそんなもんはまとめて貝塚にポイですよ。(笑)」
そして、人生の指南本や宗教、哲学関連の権威ある人たちはアドバイスしてくれます。
「それよりももっと社会に貢献する仕事なり、家族サービスをしたり、生産的な活動をしたほうが人生は楽に生きられるよ。」
しかし、私はと言えば葛藤しっぱなしの人生でした。(苦笑)
ですから、仕事や金儲けよりも、悩んでもしょうもない課題?を抱えて、若き日々を修行(思索)してきたわけです。(苦笑)
セックスは聖なる儀式=神様の血統を実感
やはり、私のように悩み葛藤する方はいたんですね。(笑)
尊敬する師観先輩がその人です。ブログより引用させていただきます。
師観先輩の実存的体験(引用1)は、かなり心の次元が高いところに到達していると思います。
まさに聖人の域(本然の世界)に達しています。幸福の科学の大川降法総裁も師観先輩の足元にも及ばないでしょう。(笑)
大川氏には血統の概念すらない(解らない)ですから。(苦笑)
師観先輩のブログより
引用1『祝福を受け、3年後にアメリカの教会で祈っていると、全身が神の霊気に満たされ、自分の肉体までが聖化されて、今まで克服できなかった愛と性の葛藤が克服され、性が神の聖なる儀式であることを実感したのでした。』
引用2『(ヤマギシズムの)村内会員のある仲の良い恋愛中の若い男女がいました。(中略)あんまり仲が良いので、古参のメンバ-から、「お前たち、そんなに仲が良いのならキスして見せたらどうだ」と冷やかされるほどでした。
この二人は4年後に結婚しましたが、その間、一度も性的関係はなかったという。恐らく、家庭を持つ前の面接の時に、証しをしたのでしょう。これは村の美談になっていました。彼らは立派に原罪を持った人たちでしょうが、本性から湧き出る本心・良心の導きによって、清らかな愛の花を咲かせたのでしょう。』
引用3『Y氏(シック)によればセクシ-な女性を見れば欲望が刺激され、世俗的欲望から解放されないという。恐らく、先祖の因縁が違うのでしょう。(中略)私は彼を責めたことは一度もありません。アメリカでは祝福受けてもホモの欲望から解放されない信徒は沢山います。欲望のレベルで実践をしていない人、時々する人、シック同士でしばしばする人、毎週ペン・ステ-ションのトイレで誰彼なく相手を見つけてしている人などがいるようです。』
原罪も血統(サタンの)も同じ意味
師観先輩のブログでは、原罪というお話が出てきます。その中で原罪の定義をされています。
原罪とは「人間は生まれた時からすでに神なき所にいる」と定義されています。
そう考えますと、原罪がないというのは「人間はすでに神がいる所にいる」ということになります。
上記の引用に出てくる
師観先輩(引用1)
ヤマギシズムの村内会員の夫婦(引用2)
Y氏(シック)とアメリカの祝福家庭たち(引用3)
この中で「すでに神様がいる所にいる人」の仲間に入るのは誰でしょう?
師観先輩は当然神様とともにいますので、原罪なしです。(笑)
ではヤマギシズムの夫婦はどうでしょう。
Y氏やアメリカの祝福家庭たちはどうでしょう。
Y氏やアメリカの祝福家庭たちは神様とともにいるとはとても思えないですね。(苦笑)
ヤマギシズムの夫婦はどうでしょう?
この夫婦は可能性はありますが、実際のところはわからないというのが私の意見です。
私が三つの引用例に対して、「すでに神様がいる」か否かの判断をした基準があります。
これが「血統」なのです。「血統」で私は判断したのです。
「原罪」も「(サタンの)血統」も同じ意味あいだからです。
何度も言うように「血統」とは動機です。神様に対する動機(思い)があるかないかで判断したのです。
師観先輩ははっきりとした神様に対する動機が確立しています。
だから神様の血統に属するのです。
それに対して、Y氏やアメリカの祝福家庭には神様から来る動機が見当たりません。
ヤマギシズムの夫婦には、本人たちに聞いてみないとわからないでしょう。(笑)
原罪があるかないかは、祝福を受けたか、受けてないかではなく、神様の動機を持っているか、否かでわかるのです。
原罪とは思いですから、「生まれた時からすでに神なき所にいる」と思わされているのです。
この思いがすべての行動の動機に潜んでいるのです。
人類は神様への動機を失い、狂わされているのです。
これを「サタンの血統」、すなわち「自己中心の思い」というのです。
原罪清算(血統の転換)はアボジとの日常会話(心情交流)でなされた
シックであるY氏にしても、アメリカの祝福家庭の兄弟にしても、動機が変わっていません。したがって、原罪が清算されていないのです。
宗教家や良心家、祝福家庭の中には原罪を性欲と混同している人がいます。
「性欲のとなりに潜む隣人(自己中心の動機を訴えている)」に気づいていません。ですから原罪の清算、すなわち動機の転換ができていないのが実情です。
私も20代で祝福を受けましたが、その後もY氏同様に世俗的欲望、「性欲のとなりにある不快な隣人(思い=自己中心の動機)」に悩まされました。師観先輩が言うように、先祖の因縁もあるかと思いますが、大きな要因は本人自身が「心と体の闘い」すなわち「動機の転換」に勝利できていないからです。
では、原罪清算(血統転換=動機の転換)を勝利できた方はどのような方でしょう?
師観先輩のブログから引用します。
『その時、教会に献身した真の動機が明らかになりました。それは天国に行きたいからではなく、神を愛していたからでした。』
『一度地獄を決意した自分には怖いものがなくなり、済んだ心で(中略)その時から、神の前に立つ孤高の境地に立てるようになったと思います。』
『アボジから「何だ、お前は腕が無いではないか!お前のような奴が日本から代表で送られて来ると、先生はアメリカの食口から日本はクズばかり送って来ると言われるのだよ!」とまで言われましたが、微動もしなかった。逆に、メシヤからの信頼を頂いたと感じました。』
どうでしょうか!
見事なまでのアボジに対する対応ぶりですね!(笑)
そして、動機はどうでしたか。
神様を愛することが動機でしたね!
師観先輩は、アボジから「アメリカのシックはおまえをクズと言っているよ」と言われたのです。
ここで師観先輩は、心に怒りもなく、アボジに抗議することもなく、神様への愛(動機)ゆえに心は微動だにしなかったのです。
これが、原罪清算(血統転換)の秘訣です!
私が研究してみると、アボジは極めてワンパターンな原罪清算(血統転換)方法をなさっておられます。
弟子や婦人たちとセックスをして、原罪清算(血統転換)なんかしていません。(苦笑)
あくまでも心情(動機)の転換を会話(心情の交流)を通してなさっておられるのです。ですから、「血統転換は心情転換」とも言うのです。
そして、アボジは「原罪清算(血統転換)は父母と本人自身で成し遂げるのです。」とおっしゃられ、本人の責任をより重視されておられました。
祝福儀式は、アボジと関わりを持ったことの証にすぎません。その上で、原罪清算(血統転換)の路程(”私”の完成摂理)が弟子たちとの間で、会話(心情交流=動機のやりとり)を通してなされていったのです。
アボジは、神山先生はじめ、歴代の教会会長と一対一の何気ない会話のやりとりをされています。しかし、そこで全員が心をざわつかせてしまうのです。つまり、動機の転換=心情転換をことごとく失敗してしまっていたのです。
アボジに対することは、まさに血統転換(動機の転換)の真剣勝負であったのではないかと思います。
ちょっとでも隙を見せたら、サタンが「動機が私と同じである」と侵入し、神様に対する動機を奪っていくのです。
このことが先輩諸氏の皆さんには誰も悟ることができませんでした。
師観先輩は悟るというより身についていたようです。
師観先輩はヤマギシズムの哲学世界を学んでいたようです。アボジにお会いする前に、すでにひどい言葉(?)を言われれば言われるほど、とてもうれしい。ただ「ありがとう、ありがとう」。くさされることも天国。「変に処して動ぜず、自己の絶対の位置を見出し、そこに立つ」という心構えを会得していたからです。
アボジは何回も何回も、失敗する弟子(先輩)たちにチャンスを与えては動機の転換をさせようと必死だったと思います。結局最後は、ご自身の基台まで失うほどに讒訴を受け続けることなっていくのです。
師観先輩のブログより
『イエスは捨て身の戦法で霊的勝利を勝ち取りました。アボジも捨て身の戦法で、即ち自分の家庭を犠牲にして祝福家庭の救いの道を開いたということです。
(中略)
自分(アボジ)の家庭を犠牲にしてでも祝福によって原罪の壁を越えれるようにしておけば、誰かが人格完成を出来る道筋が立ったことになります。
それゆえに、祝福家庭は自分の名で神に祈ることも出来ますし、祝福も授けることが出来るのです。
即ち、万人がメシアになれる道を開いたということです。そして、この段階で、アボジの真の父母としての使命は完了・完結したことになります。』
アボジと直接お会いする場合は、キリスト教の精神世界を会得しているとか、天理の教えを会得しているといったような達人でなければ、おそらく吹き飛ばされてしまう(原罪清算できずに、本人も霊性を失っていく)ことでしょう。
そういう意味で、みごとに勝利された(血統転換=動機の転換された)方が師観先輩であると思います。
今まで断食を何十日もされたり、何百人も伝道されたり、大きな大会や行事を成功裏に導いた先輩たちはたくさんいます。
しかし、アボジとの対面による血統転換(動機の転換=心情転換)を勝利して、神様の子女となった方は師観先輩のほかに見当たりません。実に残念なことです。
師観先輩はすでに後期高齢者であるそうですが、ぜひ気持ち良いセックスをこれからも続けていただき、後輩の良き模範になっていただきたいと思います。(笑)
次回シリーズの3回目は私の実存的体験(動機の転換)をお話していきます。