はじめに
師観先輩のブログ記事を参考に引用させていただきながら、血統と性について3回シリーズで考えてみたいと思います。(笑)
特に原罪清算後の私たちの目指す「血統と性について」です。(笑)
師観先輩のブログ記事を横断的にみながら、一貫した内容になるように努めました。(笑)
要するに「気持ち良いセックスをしたいな」って話をしようと思います。(爆)
註:師観先輩のブログ記事の引用文は『 』で示しました。必要な場合にかぎり、引用文中に補助的説明を加えています。出典元のブログ記事タイトルは省略しています。
芸術としての性
いきなりですが、師観ブログではすごい世界が展開されていますね。(笑)
こう思うのは私だけでしょうか。
以下に引用させていただきます。
『男女の愛が神の愛まで高められ神のエロスの愛として性を伴って展開されるのなら最も美しい芸術であろう。私もその世界を何度も経験した。』
「シビレました。」(笑)
ここは師観先輩の自慢話ととらえないほうが良いでしょう。(笑)
シックの中にはそう感じてしまう人もいるでしょうが、私は「そうなんだ!すごい!」と素直に感嘆したところであります。(笑)
ただ、ひとつ気になる点もあります。
「私もその世界を経験」と師観先輩一人だけの世界に思える点です。(苦笑)
「私たち夫婦も」なのか、「私も彼女も、そして神様も」なのか、「さらには天使たちも」なのか、そのへんがあいまいなんですね。(笑)
夫婦でお互いに感じる世界は、ほんとうにアンビリーバボー!だなと思ったのですが。(笑)
ちょっと妄想?しすぎかな?。(苦笑)
私(たち)が目指せる段階としては、「美しい芸術」とまでいかなくても、「神様とともに夫婦で気持ち良いセックス」という段階は手が届きそうかな(ちょうどいいのかな)と思いました。(爆)
性欲とセックスについて
師観先輩のブログの中には性欲とセックスについてのお話があります。
性欲とセックスの話と聞けば、シックの皆様の中には耳がダンボ(ディズニーアニメの耳のおおきな小象)のようになってしまう人たちもいるかもしれませんね。(笑)
しかし、気持ち良いセックスには性欲は欠かせません。(笑)
今から話す内容がおやじ仲間のエロ話にならないように気をつけたいと思います。(笑)
ただ、多少の脱線はお許しください。
淑女の皆様にも最初にお願いしておきます。(笑)
【性欲、業(ごう)を制す】
この格言をご存知でしょうか。
「本然の性欲はカルマ(セックス)を主管する」という意味です。
実はこんな格言はありませんね。(笑)
「柔(じゅう)能(よ)く剛(ごう)を制す」をもじった私のパロディーです。
でも、なんとなく本然の性欲のイメージがつかめるような気がしませんか。(笑)
師観先輩は性欲について、『欲望を自制できる男性は沢山います。しかし、ワザワザ自制しなければならない過度な欲望があることが問題なのです。』と、このようにおっしゃっています。
よっぽどの変態でなければ、成熟した男性は、節度を持って、性欲(欲望)は自制しているでしょう。
私は、性欲が過度であるかどうか〈程度〉ではなく、性欲の〈方向性〉が問題であるように思います。
誰もが〈性欲の方向性〉が野放し状態なのです。もちろん、たいがいは心の中、頭の中だけの話なんですが。(笑)
これを頭の中に吹荒れる「春の嵐」と呼んでいます。
「春画が桜の花びらのごとく、風に舞い上がり、吹き荒れ渦巻いている」感じですね。(笑)
勝手にこう呼んでいるのは私だけかもしれませんが。(笑)
思春期に吹く嵐
私も師観先輩同様に思春期にこの嵐を経験しました。
中学生から高校性にかけての思春期の男子はそれはもうたいへんな嵐が頭の中を駆け巡ります。(笑)
女の子とやりたくて、やりたくて、しかたがないのです。(笑)
もちろん、一緒にやりたいのは勉強です!・・・が。(爆)
性欲の問題は、兵士と慰安婦の関係の例にあるように、女性を春の嵐の臨時避難場所にしていることにあるでしょう。
性欲そのものは神様から与えられたものです。もともとは、嵐ではなく、春風なんでしょう。
性欲を愛と関連付けられないと嵐になるのでしょう。(笑)
セックスの相手を本然の愛の対象ととらえられないことが問題です。
そして、嵐をコントロールできないことが問題なのです。一般的表現は自制となるでしょうが、さらに一歩進んで主管できると思います。
師観先輩は、
『堕落とは性愛を主管できない状態ということになるでしょう。』とおっしゃっていますから、主管することがクリアすべきひとつの段階でしょう。
セックスは美しいのか?
十代の瑞々しい感性と感受性は神様とともに感じるべきだと思います。
中学を卒業したら、自立できるような社会にしていかなくてはいけません。
まさに、「男として立つ」、わけでありますから。(爆)
たとえ学生であっても、学問を続けながら家庭生活もしっかり続けられるような支援体制を作っていくことも必要でしょう。
三世代同居(ジジババ、そして息子と嫁+孫)であれば、若い夫婦にとってはかなり心強いのではないでしょうか。
師観先輩は
『性欲も愛が主体で、その究極の表現として展開される性行為は確かに美しい。』とおっしゃっています。
この表現は私には気品が高すぎてよくわかりません。(笑)
勝手に私流に解釈してみます。(笑)
「男女が自分の性(性欲)と向かい合い、お互いがパートナーと気持ちよいセックスをすることが神様をさらに深く知る近道である」
たぶん、神様は美しいというよりも、気持ちいいと感じるほうが好きなのではないかと思いますから。(爆)
ここでお断りしておきますが、気持ちの良いセックスと言っても、エロおやじ達が期待しているような技巧、テクニックの話やエロ本・AVの「イカした」話ではありませんのであしからず。(苦笑)
性欲のとなりの不快な隣人
気持ちの良いセックスを語るには、その前に「性欲のとなりの不快な隣人」についてふれておかなければなりません。
私は思春期から、そして教会で修行していた時期も性欲のすぐ後に続いて来る「不可思議な思い」に悩んでいました。
この不快な思いは、50歳を過ぎてようやく克服できたのですが、それまでは「性欲のとなりに不快な隣人」がいることさえわかりませんでした。(苦笑)
今思えば、師観先輩のブログに出てくるY氏のように単純に「性欲」そのものに対して悩んでいたのでした。(苦笑)
実際は「不快な思い」が性欲のあとに常にくっついて沸き起こっていたのです。
この「不可思議な思い」、「不快な隣人」の正体は、サタン(悪霊)の讒訴と言えるでしょう。
師観先輩は、
『一体この過度な欲望は何処から来たのでしょうか。神が人間(男性)をそのように創造したのでしょうか?それとも人間始祖が堕落したからでしょうか?』と、過度の性欲が堕落から来たのかという疑問を提示されています。
私は「性欲」ではなく、「性欲のとなりの不快な隣人」が堕落によって、心に居座ったのだとわかりました。
師観先輩はブログの中で某兄弟(信徒)の事例をあげています。
以下に引用します。
『ある霊的な信徒が霊界に入った時に、悪霊たちが群がって自分の性器を刺激していたというのです。その時、神に祈り、天使の助けをかりて悪霊を退け、聖霊に満たされたら過度な性欲は消えていったと言うのです。』
この事例の中には、悪霊、天使(善霊)、神、聖霊が登場しますが、闘いの場はこの兄弟(信徒)の心の中であることがわかります。
心と言いましたが、言い換えれば脳内の中にある想念(思い)の世界にあると考えられます。
原理では総序にもあるように、人間(心)の矛盾性を指摘しています。
この矛盾性は性欲(思い)にも顕著に現れてきます。
すなわち、私たち人間は、欲望=性欲(セックスしたい)を「エロい」とか、「いやらしい」とか、「不謹慎」といったりして、タブー視したり、不潔であるような扱い方を心の片隅(実はすぐとなりなんですが)でしているわけです。
私たち自身が両親の性欲(セックス)によって誕生したにもかかわらずです。(苦笑)
これは、性欲とは別な「性欲のとなりに不快な隣人」がいるからなのです。
性欲そのものは神様のものです。しかし、常にその思いを捻じ曲げている思いが存在するからです。
例に出てくる信徒は『聖霊に満たされたら過度な性欲は消えていった』そうですが、性欲そのものはなくならないはずです。聖霊に満たされるとは、方向性を失って暴走状態だったものが正常運転できたということなのかもしれません。
しかし、暴走の原因やその主体は隠されたままです。
ただ、聖霊?(私は聖霊ではなく善霊だと思うのですが)によってサタン(悪霊)の讒訴条件が一時的に取り除かれたのでしょう。
この隠された暴走の原因というものが血統なのです。
ここでようやく、血統という話になりました。(笑)
次回は具体例あげながら、この血統についてお話していきます。