天に座す父に「どなた?」と問われれば脳内に壺の割れる音がする
上記の短歌は、笹公人(ささ・きみひと=念力歌人)さんの短歌を私がパロディ化したものです。
原文は、〈居間に座す父に「どなた?」と問われれば脳内に壺の割れる音がする〉、認知症の父を歌ったものです。
先のパロディ化された句は、今の家庭連合、シックの心情にとても合っている気がします。
天の父から、あなた様(家庭連合)はどなた様でしょうか?と問われているのですね。
神様が認知症なのか、それとも家庭連合が神様を見失ったのか。
はたしてどちらなのでしょう。
ただ、私の心の中にある壺が粉々に割れてしまったこと(家庭連合消滅)は事実のようです。
旧統一教会は、なぜ多くの若者をひきつけることができたのか。
そこには、大きな希望があったからでしょう。
この世の生きづらさや居場所のなさに、教会は確かに希望をもたらしたのです。
教会や教祖や教えを信じている間は、神聖で、そこに救いがあるように感じます。
いったん、それを疑うと教祖は悪魔や詐欺師に変わり、教会への評価や見方もインチキなものに思えてきます。
自分は騙されたと考えてしまいます。そう思うことで事態を説明するしかないのです。
そうした元信者という方々も多くいらっしゃるでしょう。
ちなみに私は卒信者=信者を卒業したの意味です。(笑)
今後宗教法人は解散となることになるかもしれません。
法的な手続きが成立すれば可能性としてはあるでしょう。
それでも(真の父母という理想)が消滅することはありません。
今日、陰謀論を信じる人たちがいるように、信じる者(信者)は常に一定数はいるわけです。
ここに宗教自体としての理想は消えない理由があります。
新たな信仰を持って理想を確立するしかないわけです。
人によっては神(お金)に「おすがり」したいという願望もあることでしょう。
そのような方たちは独生女信仰の信者となるのです。
こうしたおすがり信仰を抜け出して、日々の生活における真の父母を実感、感じあう世界に突入する道はないのでしょうか。
現実社会の中で真の父母との繋がりを実感できる道はないのでしょうか。
私はあると思います。
真の父母理想とリアルは、日本というこの国において感じることができます。
お金では買えない、唯一の神様からの贈り物です。
神様がおられるのであれば、真の父母は現実の国家という共同体を持っていて当然なのです。
(北朝鮮は偽りの父母による国です。)
神様の目から見ると、一教団という次元はとっくに超えていかなければならない今の時(摂理時代)なのです。
家庭連合は、旧統一教会からの脱教団にチャレンジすることによって、国家に繋がるという意義と使命があったといえるでしょう。
今はその意義を失い、使命ははたせませんでした。
教団へのおすがり信仰の壁を超えることができないまま、逆におすがりの対象としての「人物信仰」や「財」にしがみつくことになりました。
そうした中で日本という国の良さが見直されたのです。
日本の天皇は神聖な存在であり、王朝の交代がなかったという点で他国より優れています。
そうしたことに優越感を持つ日本人もいます。
旧統一教会信者も神様から選ばれし選民、選ばれしメシアを戴いた民としての優越感を持ったことでしょう。
その優越感と小中華思想の韓国の民族意識とが結びついてしまったので、神様から「どなた?」と問われる身となったのです。
そして、神様の願う国家は残念ながら持つことができませんでした。
しかし、日本人シック(家庭連合の卒信者としての皆様のことです)は、宗教的おすがり信仰を脱して、
真の父母(天皇皇后陛下)による国の民であることに誇りを持っていくことができます。
そこには、選ばれた民、国という優越感は必要ありません。
ひそかに誇りは持ってもいいでしょう。
謙虚さを備えた利他心という国民性があるからです。
国民性は言葉を変えて言えば、国体と言ってもいいでしょう。
国体への目覚めは、「すがる」のではなく、「ともに良しとして尽くせる私である」ということへの自覚でしょうか。
日本の国体としての利他心は、原理的に解釈すれ神様からの血統としてこの国の民族に残されてきているのですね。
そのことに気づくことができたことは、家庭連合が消滅した後も私にとっては大きな喜びとなっているのです。
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