ただいまから新しき良き人生の出発です。
かつて臨在宗天竜寺派の関牧翁(せき-ぼくおう)管長が、死んだらどうなるかと訊かれ、「死んだら終わりよ」と答えられたそうです。
臨済宗は禅宗の一派ですから、自分の本性を悟り得ることを目指しているのに、「死んだら終わり」では、拍子抜けしてしまいます。
もちろん、死んだら終わりだからこそ、生きた証を残し、子孫に恥ずかしくない生き方をするようにという意味が込められているようにも解釈できます。
さらに検事総長をつとめられた伊藤榮樹(いとうしげき)氏は、「人は死ねばゴミになる」という本を書かれたそうです。ガンを患って、余命いくばくもない身となって執筆したので、ある意味この悟りもすごいと思ってしまいます。
人それぞれ、十人十色。百人百様の人生観が生まれます。高僧の真意も検事総長の真意も本人の悟りとは別に、受け取る人しだいでなんとでも解釈ができてしまうものです。
ただ、ひとつ言えることは、高僧も検事総長も死ぬ瞬間は、ともに感謝の思いに満たされていたことだろうと推測しています。
そうでなければ、次に来る新しき良き人生には出会わないと思うからです。
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