永続する幸福

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幸福について考えると、ちょっと大げさになるかもしれないが、快か不快かなら誰もが毎日自覚しているでしょう。

昨日私は、ひいきのサッカーチームが負けてしまったので残念な気持ちから、「これで○○連敗!もう泥沼状態だわ!」と、同じサポーター仲間にボヤいてしまいました。(苦笑)

そもそも自分ではどうにもならないこと(私の場合自分がサッカーの試合をして勝利に貢献するわけではない)に心を乱されてもしかたがないことはわかっているのですが、感性的に快、不快の感情に走ってしまいました。

事がサッカーの試合内容ならばまだ、お楽しみの範囲で済んでいますが、自分の半生を捧げた人生そのものと考えたら、ちょっと笑いごとでは済まされないでしょう。

幸運なことがあったから幸福だ、その逆に不運なことがあったから不幸だというのであれば、いつまでたっても私たちの人生においては幸福感を得られないでしょう。

幸福は人生の成功や失敗によって、揺らぐものではないはずです。天国が存在しようがなかろうが、個性完成も、家庭の完成もなくても、そうした人たちにも幸福は「ある」のです。

私たちは、愛を与える人生を教えられてきました。しかし、与えることができない人も自分に与えられた愛に感謝していく人生もあるのです。

何も与えるものがないと思う者も、与えられていることに感謝することができるのなら、すでにそこに価値はあるのです。

今私たちが生きていることそのものが他者(神様)に貢献している(愛を示している)のです。

そこに生きてもいいよと思える、幸福感があるのです。

教会(信仰)で挫折した、祝福で失敗した。でも信仰や成功が幸福そのものではないはずです。

それらは幸福に対する過程の中の一要素に過ぎません。

私たち自身が、誰と向き合っているかを考えてみましょう。自分自身、そして自分の心ではないでしょうか。

制約や困難があってもそれによっては人生は決定されない、そう思える私であることが大切です。

私たちの人生の終盤はまだまだ創意工夫しだいで、質的に飛躍的に高められます。幸福は量ではありません。どこまでも質によります。

美しさと同じです。誰も知らない野の花もその美しさを知る者が必ずいます。ですから、与えられた美しさをどう表すかを大切に生きてみたいものです。

残りの人生を今まで以上に真剣に生きていくことが輝くことに繋がります。

でも真剣はいいのですが、深刻にはならないことも肝心ですね。(笑)

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