日本に備えられた神様のプログラム


仁徳天皇陵

「私たち日本人の行動や習慣にも、目に見えない神様のプログラムが働いている」と考えられます。「私がどんな人間なのか、どんな民族なのかというイメージ」も相手や国家との関り方に現れてきます。しかし、民族がなにがしかの属性を発揮する場合、神様との関わり合い方によっては、民族、国ごとにまったく違った姿を見せることになります。

日本民族はいったいどんな属性を持ち続けてきたのでしょうか。

日本人は日本文化という母体を持っています。それは神道の自然信仰だったり、死者の霊を祀る御霊(みたま)信仰だったり、民族の統治者を敬う皇祖霊信仰によって知ることができます。

島国として大陸から切り離された場所にある日本は、比較的温暖で豊かな水や樹木に恵まれた自然環境がありました。民族大移動(放浪)をしなくとも容易に平和で安定した生活ができていました。

自然に育まれた中で、八百万の神、万物に神様が宿る自然信仰・思想が定着していきました。それと同時に平和的な安定した幸福な生活の中で、日本人は自然と調和した関係を保ちながら、人間どうしにおいてもお互いに好しとする人間関係を築いてきました。そこから争い合うことを否定する属性を持つ民族として存続し、今日まで栄えてきたと思います。

その一方で私たちが教えられてきた歴史や文明の考え方は別の見方によるものでした。はっきり言えば、戦争、略奪、争いの歴史でした。世界でいろいろなことが起こったのも、その主体は戦争であるというものです。一方が善なら、一方が悪という善悪闘争の歴史観を教えられてきました。

聖書にしても、原罪が人間を悪なる存在にしてしまいました。そこから、性悪説を当然として主張してきました。(統一原理の創造原理は性善説ではありますが)

西欧文明は常に争い、略奪する歴史が前提となった文明です。つまり、原罪をもっているところから始まる戦争の歴史、文明だと考えられます。

性悪説的観点で人間や歴史をとらえると、日韓併合は侵略となり、朝鮮半島を植民地化すると決めつけてしまいます。これは、それまでの白人国家が南米、アジア、アフリカで行った侵略や植民地の概念を当てはめようとしたためです。

白人国家の植民地支配とは、英国が清国にしたように、アヘンでその国の人々の精神を蝕むことを平気で行います。宮廷の高官から裏通りに住む人民まで、ズブズブに国の内側から腐らせ、最後には異臭漂う廃人の国にしてしまいます。その上で、巨額の純銀を強奪していくというものでした。清国を修羅場と化しながら滅亡に追いやった大英帝国は、一方では歴史上、議会制民主主義を築いた栄光の国として崇められているのです。

英国と米国が清国の次にアヘンの腐敗した洪水を浴びせようと標的にした国が日本だったことはあまり知られていません。それ以前、スペインが世界に覇を唱える過程で行った略奪、殺戮は、英国と大同小異でした。しかし、このアヘン戦争における英国のやり方の汚さの実態は、スペインほどには世界中に知らされてはいないのです。なぜなら英国はユダヤ資本と組んで情報操作も巧みだったからです。

日本をキリスト教国にするために、英国、アメリカの植民地主義、帝国主義を神様が許したのでしょうか。私は答えはノーだと思います。明治の日本人たちは、アヘンの恐ろしさ、清国の悲惨さを目の前で見ていたのです。ですから日本への侵略を瀬戸際で食い止めようとしました。もし、神様が日本への侵略も許していたら、清国や他国同様に日本は独立国家としては成り立たなかったでしょう。また、清国同様に略奪され、廃人の国となっていたかもしれません。しかし、神様が日本と日本人を守るために、全国の神社、仏閣、さらには日本人の心に住まわれ、防御されたのです。

ですから、日本においてはキリスト教は日本国民には受け入れられませんでした。そこには神様の意図があったと思われます。西欧キリスト教の中に潜む、争う本質を日本人をして神様が嫌ったからです。もっと言えば、西欧・アメリカの戦前戦後の実態は民主主義ではなかったからです。むしろ、植民地・帝国主義による強欲そのものだったのです。さらに欧米政治の中枢部には社会主義までが入り込み、侵されていったのです。日本の伝統的社会を襲ったのは、キリスト教の愛ではなかったのです。キリスト教に隠れた強欲と社会主義だったのです。むしろ、日本は社会主義・強欲に、一貫して対抗してきた国だったとも言えます。

そうした中、揺るぎない日本の争わないという精神資質が、神話の時代から現代まで伝統的な独自性や柔軟性を生みながら、欧米型の資本主義や民主主義を、天皇を中心に戴いた資本主義、民主主義へと変化させました。その証拠が神話の時代より、常に文化の中心に天皇がおられ、皇室の歴史が一貫してあり、和を尊ぶ伝統が護られてきたことにあります。

日本は、天皇皇后両陛下ご夫妻に、「まことのちち、はは、国父、国母」を実体として見ることができる世界で唯一の国となりました。残念ながら、家庭連合(韓国)は、産みの母を悪しざまに言います。しかも、強欲・権威欲丸出しで財の奪い合いをして、分裂してしまいました。そのような国やその者たちには「まことのちち、はは」、神様の国を見ることはできないでしょう。

日本の文化や日本人のアイデンティティーは、国でも人でも関係し合う中で表現され、現れてくるものです。すなわち、和の精神の中に見えてくるものです。ですから、まことの民主主義も和の精神を基本においています。この和の基本を夫婦の和としていることは、日本の統一シックであれば充分感じていることでしょう。

また、和は誠実さと表裏一体です。国家間においても、誠実さはその国民の日常生活の中に自然に現れてきます。日常生活で平気で嘘をつく民族や腹黒さを意に介さない民族ではとうてい理解することはできません。しかし、日本には、清い精神文化はすでに国民の日常生活の中にあると言えます。

明治時代に発布された教育勅語では「国民は父母に孝行し、兄弟は親しみあい、夫婦は仲むつまじく、友人を信じあい、つつしみ深く、高ぶってはいけない」とあります。統一原理と矛盾するところは何もありません。神道がキリスト教より優れているとか、さらにとってかわるということではありません。ただ、神様が見て喜ぶ家族主義、国家としての家族共同体は今日の日本に根付いているということなのです。

日本は、軍事大国、経済大国を目指してはいません。しかし、文化心情大国と言ってもいいかもしれません。そこには「誠(まこと)のちちはは」の国と呼ぶ方がピッタリくるような美しい品性を備えた国民一人一人がいるからでしょう。

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