天国世界は存在しないが光を入れることはできるはず

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宗教を超えた霊性(スピチュアリティ)の交流を可能にするチャンネルを持っていますか。

人々はなにかしら「元気を分けてもらった」と表現しますよね。

特定の場所(聖地、パワースポット)に出向くことであったり、物や人に出会ったり、癒しの言葉や行為であったり、音楽もそうでしょうね。

私はこのブログ記事をモーツアルトを聴きながら書いていますが、とても心が軽やかです。笑

他にはスポーツ選手の活躍が私たちを元気にしてくれます。ひいきのチームがプレーするのを見るのは楽しいものです。

それ以外にもお気に入りの植物だったり、ペットだったり、おいしい料理や食べ物等々、実に沢山ありますよね。

これらどれもが私にとっては心のエネルギーを充足し、高めてくれるものです。

逆に悪影響を受けている場合もあります。

様々な映像、文字など、日常目にするもの、聞くものの中には、恐怖、ストレス、邪悪、不安、憂鬱といったエネルギーがたくさん紛れ込んでいますね。

人里離れた山奥や山頂で、一人暮らすのであればあまり影響は受けないでことでしょうが実際にはそうもいきませんね。

そこで自分の周りの環境に結界をはって護り浄めるには何が有効かと考えてしまうのです。

もちろん浄化された霊的意識状態にするには祈りや訓読、瞑想もあるでしょうね。

今月に入って、かなり中国の覇権主義が露骨になりました。香港国家安全維持法なるものが施行され、これで香港の一国二制度の神話(自由と民主主義)も終わりを告げたようです。私の友人(シック)も香港在住ですがとても心配しています。

誰かに(例えば習近平)に怒りを抱けば、自分も負のエネルギーレベルにまで落ち込みます。憎しみを抱かずに生活することは難しいものです。

憎しみの代わりに義憤をもって抗議すべきなのか。以前の私であれば正義感もあってか、大いに憤慨し糾弾したことでしょう。

ウイグル人弾圧に対しても中国に向かって、批判もせずに宗教者のようにただ祈りによって平和を願う者であってよいのだろうかとも思います。

この惑星の住人は何をおろかなことにエネルギーを費やしているのでしょう。

彼らが悪ではなく、間違いを犯していると考えれば、間違いに気づくにはどうしたら良いのかという発想をしてみてはどうでしょうか。

香港の若者の持つデモのプラカードには、「世界の平和のためにお互いに許し、愛し、団結せよ」と書いてみたらどうでしょう。

カネと力(パワー)が物言う欲望社会にあって、かなりの確率で笑い者になってしまうかもしれません。しかし、私を含めたアホウたちには超えてみたい境界線があります。闘わずに光の矢を放つこと、こうした考えに共感するシックも中にはいるのではないでしょうか。

自分の考えの中に、対立の原因を探っていては悪は決してなくなりはしないでしょう。

天使長は悪鬼(サタン)ではなく、間違いを犯した神様の友人なのだと思います。悪鬼にしてしまったのはアダムがそう信じてしまったからです。信仰の世界では神様は善として、サタンは悪として存在しています、そのように信じこんだ世界があるからでしょう。

しかし、ポスト家庭連合以降の世界では、信仰による信じる世界(宗教)は存在しないでしょう。

私たちの心の中には悪は存在しないのだから。悪という認識がない、知らないのだから、信じる必要もいらないでしょう。

同じように善も存在しない。善という認識がない、知らないのだから神を信じる必要もないでしょう。

神様はただ感じるだけでよいのです。

思考もまた感覚に近いものになっていくに違いないのです。

感情と理性、主体と対象を分離させない、すなわち両者の間(関係性)に世界を捉えると、関係性のネットワークが網の目のように無限に広がっていく世界であることがわかるでしょう。ネットワークを閉じて天国としての世界を囲い込めば、囲い込んだその外側には無ができあがります。

そうした無にもアクセスする手立ては果たしてあるのでしょうか。

あるとすれば自分も無になるということなのでしょうか。

今まで善悪二元論で天国世界を意識してきましたが、そんな天国世界は存在しないのかもしれません。

精神と身体は分離してバラバラなのではありません。世界を精神と身体のごとく、善でもない悪でもない認識を一元にしてしまう思考(感覚)回路を得ると、関係性の外側に広がる無にも光を入れる(アクセスする)ことはできるはずではないでしょうか。

人は死ぬときの身体は硬直しても、生きているときの魂は柔らかでありたいと思うものだからです。

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