ポスト家庭連合の時代は、変換をマスターする時代です。
変換をマスターすると、ある種の「解放」「自由」を経験することになりますよ。
それはより「確かな」な生き方を可能にしていきます。
◇ 賢者Aさんは言いました。
「オモニの涙や悲しみとともに生きることができたなら、それは真の父母によって自分も愛の人として変わったということなんだと思います。」
◇ 賢者Bさんは言いました。
「オモニの独生女論を黙認しては、アボジの愛や恨が解けないと思います。ましてや自由や解放などありません。」
さてさてどうなんでしょう。
人間は関係性に配慮しながら生きるものですね。
賢者Aさんも賢者Bさんも、それぞれにオモニやアボジとの関係において情動(感動)が確認できますね。
感応する体験は、聖霊体験となってリアルに存在しているようですね。
この聖霊体験をもとに、賢者Aさんも賢者Bさんも「何があっても不変なもの」と捉えるとしたら、求めていたはずの確かさは失われ、自由や解放とは逆に固定(固着)してしまうことになりませんでしょうか。
自分と「同じもの」を全体的なものとしてしまうと、確かさは失われます。
確かさを「同じもの」から「変換」へと軸足を移してみてはどうでしょうか。
「変換」へと軸足を移すことで、むしろより高次の確かさが手に入るようになります。
そして、開放された自由な「同じさ」を持つことになります。
主体と対象があるから授受作用があるのではなく、授受作用があるから主体と対象となりえるということなのかもしれません。
相互授受作用こそが解放された自由な「私」そのものなんですね。
変化するもの、異なるものを「同じ」と見なす仕組みを私たちはすでに持っているからです。
変動する環境から翻弄されずに脱け出す変換システムと言えるでしょう。
僕から実子まで同じと見なす、それぞれのステップを踏み越えて、「いっちゃって無効化システム」です。w
これはもう縦横無尽に実子から僕まで簡単に降りてもいけるすぐれものなんですね。w
ただ、この「変換」システムも絶対的なものと捉えない(固着しない)ほうがいいでしょう。
つまり、「真の父母との授受があるから、必ず天国は来る」→このように世界全体を決定論的には見ないということです。
「真の父母との授受がなければ、天国は来ない」、これは因果性として言えるのですが。
されど自分が「蒔かなければ種は芽を出さない」とも言えます。
さらに、当然のことなんですが「芽の出ない種もある」ということも現実としてはあるんですね。
それらすべてを含めて、アボジとオモニにはありがとうございます。
そして、私たちにはすごい力がある。
ついてる、ツイテル、神様が。w
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