先回、み旨を標高8000メートルを超える登山にたとえました。今回もその続きです。
登山を考えるときに、登頂をゴールと考えがちですが、頂上に着いても必ず無事に帰ってくることができなければその登頂は失敗に終わります。
それと同じで、私たちが歩むみ旨においても、実はゴールは下って帰ってきた時だと言えます。その帰ってくる場所が登山ではベースキャンプになります。み旨では家庭であり、もっと広く定義すれば一人一人の「こころのあり方」になります。
統一シックは、み旨を歩みながら、いつしか特定の宗教団体からリタイヤして、そこで自ら下山することをあきらめてしまっていると思われます。登山で言えば、8000メートル付近の頂上近くは空気も薄く、一息ついている暇はないにもかかわらず、その場にうずくまっているかのようです。エネルギーが残っているうちに、あわてず、パニックにならずにスピディーに帰ってくることが必要なのです。
教会内奥は、標高8000メートルを超えるデスゾーンと呼ばれる世界と同じです。私達はすでに、教会の裏側、人のこころの底の地獄を見たでしょう。神様は初めから宗教世界には天国を定めていません。私たちを宗教の沼底のデスゾーンに導かれたのは人のこころの地獄を見せるためだったのです。
私達シックは、そのデスゾーンに到達し、希望を失い、嘆き、怒り、苦しみました。しかし、ここでみ旨は終わらないのです。次はベースキャンプまで安全に下山することで完結するのです。
ベースキャンプは、一多(いちた)のこころでできています。自分を取り巻く環境の中で「一」と「多」を引き離すのではなく、関係づける世界がこのベースキャンプにはあります。
宗教で言えば、一神教と多神教の間の違いを対立的・敵対的に捉えるのではなく、「多」の中に「一」を探り、「一」の中に「多」の展開を見る、日本人の「和のこころ」が大切なのです。
これは家庭においても言えます。家族という「多」の中に、私という「一」を見出し、また私の「一」の中に、家族の「多」を見出します。日常の中の雑多な現象の背後にも統一的システムを見出すということなのです。あるいはそのシステムを動かしている力を感じるということなのです。
一多(いちた)の世界は、宗教的心情を脱して世俗化するという意味ではありません。また近年盛んなスピリチュアリティとも違います。例をあげると、宗教では食べてはいけないものがあります。イスラムでは豚肉はタブーです。ユダヤ教では豚の他、タコ、イカ、貝類、エビ、カニも食べれません。肉と一緒にバター、チーズもダメですからチーズバーガーも不可です。ヒンドゥー教は牛をタブーとします。さらには宗教とは関係しませんが、採食主義者もいます。
もうすぐ東京オリンピックが始まりますが、どのような方たちにも喜んでもらえる食の提供について、いろんな食のこだわりにも対応可能ということが必要になってきます。これを「おもてなしのこころ」で、お迎えできる社会がすなわち、一多(いちた)のこころの世界となります。いろいろな食材を用意できる中で、メニューの選択にもこころを込めて、安心を第一に準備することになります。一方、世俗化は、例えればメニューは雑多に混在(多元化)してありますが、「おもてなし」のこころがあるかと言えば、準備不足となります。なぜなら、食事メニューには、常に何かが混ざっているかもしれない不安だらけだからです。
日本人のこころのベース(キャンプ)には仏教、神道の影響があります。特に神道の「多神教」としての影響は日本全国にある神社に象徴されるように様々な神様がおられます。多様な人々のニーズに応えるゆるやかな共同体ができあがります。また、仏教は第三の道を説く、「中道」においても、悟りに至ることができるとされています。
今、日本は神道も仏教もどちらが優れているかを問うことはしません。自分たちの伝統や他の伝統を含む、より広い文脈で位置づけているからです。日本は「一多のこころ」を育む環境は整っています。私が二十代の頃は世捨て人としての出家的人生を教会生活を通して歩みました。しかし、今度は社会や家庭に身を置きつつ、社会通念を脱して、独自の価値観(これは個人的神観ですが)で、我が道を歩むことが可能となっているのです。極端な例を挙げれば、オカマのシックもありなのです。(私がそうだと言うわけではありませんが、笑)
これからは、日常への帰還(下山)であり、自分が直接関わっている人間関係、組織を相対化させて、そこにある論理にのみ込まれない視点を見出していきたいものです。こうした視点は日常世界に溢れる多様性の中から、新鮮な驚き発見を見出していくことになるでしょう。
一多(いちた)のこころの世界は、善良な妖精に話しかけることができる感性を持つことができます。下山は決して意味のないことではありません。また、登りたく(極めたく)なったら、いつでも登れば良いだけです。
今までの人生は、人跡未踏の頂上までの道でした。人生の半分以上の年月をかけて登ったその道は、後世の者にとってはわずか三日で登れる道となることでしょう。それでも人跡未踏の地を歩いたその重みは自分だけの宝として、これからは居間の足元にそっと置いておくのもいいものではないでしょうか。