以前、私は*み旨*について、どのように達成するかということを山登りに例えてイメージしていた。
しかし、今はそういった例えが効かない状況にあるように思える。
青春時代を過ごした家庭連合がことごとく掲げていたみ旨を自ら瓦解させてしまっている。
今は壊死状態である。創造性が皆無なのである。
(*私はみ旨とは神様と人間が共同で創り出す理想郷ととらえている*)
理想世界をイメージしてもその姿は、どんどん変わっていってしまう。
かつては、絶対的価値観による統一世界を考えていたが、今は多様性を認め合うパラレル世界だといえよう。
どういうことか、少し説明してみる。
み旨を山登りに例えてみると、かつては頂上までのルートを確保しながら、時にはそのルートを変更しながらも
目指す山は変わらないと思えた。
常に山は同じ場所にあり、その山の頂上へ向かって最適なルートを見出しながら登っていくことができると考えていた。
世界最高峰の山といえども不動で、その位置情報が変わることはまずないと考えていた。
しかし、現在は山の地形そのもの、頂上そのものが刻々と変化している状況だと考えざるをえない。
つまり、山といえどもその位置は常に人の心の変化によって変わってしまう。
それだけではない、山の形、地形までも変わってしまうというのだ。
富士山に登っていたつもりが、富士山の頂上がいつの間にか北アルプスのような峰々に変化する状況が現れてくる。
山登りに例えて、読者をかえって混乱させてしまったかもしれない。(苦笑)
現実のビジネスシーンで考えてみるとわかりやすいかもしれない。
商品や技術、市場や社会環境が日々急速に変化していくことは理解できるだろう。
これからはAI(人工知能)の時代だといわれている。
これまで人間が担ってきた仕事の多くが、AIによって置き換わる。
今までとは様変わりした世界が現れてくる。
もちろん、日常世界も変化していくだろう。
こうした状況は今までも常にあったが今後はますますあり得るといえよう。
AIと人間の違いを説く者たちに聞けば、AIにはないが人間には信じる力があるという。
人間は信念によってAIにはできない付加価値を創り出していくことができるというのだ。
だから、どんなに日常世界やビジネス世界が変化しても柔軟に対応していけるという。
み旨が変化せざるをえないのは、この人間の心の状態、とらえ方の柔軟性によるものだ。
私は人間には信じる力を越えて、さらに推し進めて感じる力(感性)があると思っている。
AIは膨大なデータを処理することが得意だ。
しかし、人間は東洋思想的表現をするなら「無」や「空」と呼ぶべきものに深い意味を見出してきた。
そこに創造性を発揮してきた。
世の中にプロフェッショナルとして数十年修行し続けている人たちがいる。
彼ら彼女らをみていると、このことがよくわかる。
文筆家は、読者の「行間を読む」や「文末の余韻を味わう」ということを前提に言葉選びをしている。
音楽の世界も、一流の演奏家ならば、良い音を奏でることの水準を超えて、「無音」の瞬間を創造する。
話術で言えば、「間」があって、「沈黙」の瞬間を創りだして、語る言葉を引き立たせている。
絵画でも、一流になると、高度な色彩の組み合わせ以上に、「白」や「色の無い状態」の使い方を意識している。
つまり、人間にはAIにはない感性というものがあるというのだ。
では、この感性(感受性と言ってもよい)の最も深い次元をもつ宗教の世界においてはどうだろうか。
「悟り」や「光明」を得ることは、AIにはできないのではないだろうか。
それは人間の内面の深い領域になるからだ。
人間には測りつくせない心の奥深さがあるゆえんである。
「言葉にて語り得ることを、語り尽くしたとき、言葉にて語り得ぬことを、知ることがあるだろう。」とは
哲学者ヴィトゲンシュタイン流の「直観の世界」である。
感性を置き換えれば、まさにこの直観である。
人間の能力には、まだまだ成長の余地があるともいえよう。
ならば、その能力を発揮して、これからも変化していく理想郷を求め、み旨を歩んでいきたいと思う。
たとえ、己の心の成長とともに、み旨の目指す場所が変化しようとも。
ただ、そうした中でも、変わらないものがある。
それは、み旨があるからこそ、「生(残りの人生)は輝いている」
そう思える感受性(感動)があることではないだろうか。
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