まことの父母スタイル スピリチュアル

原理の核心を妨げているものは誰か

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「統一原理は愛を説くが、私を幸せにはしない。人類もこの社会も平和にはしない。」

これを真(ま)に受けるか、ウソと取るかは私(読者も含めての)次第です。

最初から、煙に巻くような文章になってしまい、もうしわけありません。

しかし、私はいたって真面目にこう思っています。(笑)

確かに信者の中には不幸に見える家庭もあり、教会は不健全(独善)であり、統一運動は国家と世界に今のところは貢献していません。虚構ともいえるビジョンを掲げて邁進しています。

しかし、当の信者の中には、こうした現実には承服しがたいと思われる方々も大勢いらっしゃいます。これもまた、事実であります。

どちらともとれるのは、原理をどう捉えるかであって、私次第ではどうにでもなるからです。

手を合わせて仕合せと思うか、手を突っぱね、手の中にあるものまで跳ねのけて怨んでいくかは、私(あなた)の思い次第だということでしょう。

ただし、こうした私次第でどうにでもなる世界観を選択するには、宗教は邪魔な存在でしかありません。なぜなら、争いのもととなるからです。神様は宗教・道徳では、もう私たちを導いていくことができないと考えておられるからなのです。

もちろん現実の社会では、紛争、残忍な犯罪、人権侵害、自然災害、テロ、ウイルス感染等々多かれ少なかれ、修羅場の世界が広がっています。その中を私たちは生きていますから、宗教の存在価値を否定はしません。

しかし、ひとりひとりは、自分の中の良心に神様を住まわせています。その神様から知恵をいただき、導いていただくことも可能な時代になったと私は感じています。

そうであるなら、教会、宗教指導者の話はアドバイス程度にとどめておくことができます。さらに無駄な宗教間の争いはいらなくなります。

私は今朝も朝日を浴びながら、散歩をしてきました。これが私流の祈りであり、日課です。遠くには雪を頂く朝日に輝く山並みを見ながら、身近にはほころび始めた梅の花を見ながら、超越的多幸感を感じています。

超越的多幸感とは、現実の状況に左右されない幸福感のことです。私が寝たきりになっても散歩もできない状態になったとしても「しあわせだなあ」と思える心境のことです。

もともとは、私の祈りは、教会生活においては、礼拝所を除けば、祈祷室や郊外の聖地といわれる所でしたし、あるいは就寝前の寝床でした。

ここでは正直に申し上げると、実に形式的な祈りがなされ、私自身に何か得たものがあったかは記憶にないくらいです。例えればアメリカ人が真剣に座禅を組んでみても、結局はセラピストや精神科医に通わないといけないというような物足りなさを感じる日々でした。

そんな私が、統一運動の終焉(ただし個人的感想ですが)する姿を見させていただきながら、絶望の後に希望の光を見出せるというのはありがたいことです。衰退する宗教のあとには、よくある、お決まりの構図なのかもしれませんが。

私にみえる希望の光は、「まことの父母」というモチーフにあると考えています。これは原理の核心であり、オリジナリティ―があります。

もちろん、特定の夫婦、例えば、文氏、韓氏夫妻に限ってはいません。どなたでも神様の二性を体現させうる可能性を持っているわけです。夫婦が一対の総和体として神様の姿になります。

ここでお断りしておきますが、「まことの父母」であって、「真の父母」とはしません。真の父母では理想とする父母というニュアンスが強くなりますから、理想の父母を唱えだすと、よりどっちが真の父母かという論争のもとになってしまいます。そこを避けるために、「まことの父母」と表現しました。

「まことの父母」とは、どちらが真(しん=正しい)かを比較する必要がないものです。父母は私たちにとって誇りうる対象でもありますが、それと同時に、恥ずべきこともアリと受け止めます。

しかし、それは一方で真摯に反省しながらも誰とでも向き合っていく謙虚さも示せる存在でもあります。神様もかつて、ご自身の私心を恥じられたようにです。これからは神様もより日常的な父母でありたいのです。

愛は普遍ですから、日常的父母にもあります。この愛と生があるところが私(それぞれみんな)の祖国になるのです。神様の血統はすで一人一人の心の中に存在する良心の種となっているのです。

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