死ぬ瞬間はたいがい、目を閉じているから何も見えないということではつまらないものだ。(笑)
目を閉じる前、何を思うかということと理解してもらえばよいと思う。
当然、今まで支えてくれた人々、とりわけ家族や兄弟、友人に感謝の思いを持つだろう。そして、理解しきれていなかったことも悔いるだろう。
私が周りの人々、とりわけ家族、子供たちや妻をどれほど深く理解していたかには疑問が残る。その一方、彼ら彼女らも私のことをどれほど深く理解しているかということも。
「文先生の家庭もしかり、やはり深く理解しあうのは難しいよな。」と独り言をつぶやいてみる。
お父様も、お母様も、イエス様も、マザーテレサも皆だれもが心に闇を抱えている。私もそうだ。闇と言っても、堕落性とか、悪魔的何かではない。
神様も当然持っている闇の部分のことだ。
聖書で言う、「闇が淵のおもてにあり」と書かれてある状態、光がまだなかった時のことだ。
このときの神様は自己完結した存在なのに、なぜか闇の中にいたのだ。
なぜ、光あれと言われたのかが、実に問題だ。
宇宙の一切が閉じ込められていたところ、そこに闇があった。そこから、大爆発(ビック・バン)によって時間と空間、物質が始まった。
大爆発(ビック・バン)の前、無の存在としての神様とは何だったのか。私たちの認識を超えた何かとしかいいようがないだろう。なにしろ、無でありながら、無と言う存在がある(有)わけだから、普通には理解できない。
しかし、今はそんなことはどうでもいいように思う。死ぬ瞬間に私の瞳に光が映し出されるのかということの方が大切なように思う。
光はソウルメイト(魂の伴侶)だ。深い絆で結ばれている何かだ。神様の闇さえも照らし出すものだ。
だから、死の瞬間に目にするのはソウルメイト(光)でありたいと願う。
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